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【コラム】海外通信員

リーベルプレートが「以前のリーベル」に戻るとき

[ 2015年1月2日 05:30 ]

コパ・スダメリカーナ決勝でアトレティコ・ナシオナルを下して優勝を果たしたリーベルプレート
Photo By AP

 去る12月10日、アルゼンチンのリーベルプレート(通称リーベル)が南米のカップ戦「コパ・スダメリカーナ」の決勝でコロンビアの強豪アトレティコ・ナシオナルに勝ち、優勝した。

 02年から始まった同大会でリーベルが優勝したのは、今回が初めてのこと。初代チャンピオンとなったサンロレンソをはじめ、04年と05年に連覇しているボカ・ジュニオルス、07年のアルセナル、2010年のインデペンディエンテ、昨年のラヌースと、過去13大会のうちアルゼンチン勢が6度制覇している間、リーベルはこれまで1度も優勝カップを手にすることができなかった。それどころか、03年大会では決勝に進出したものの、国内リーグ優勝経験さえないペルーのクラブ、シエンシアーノに敗れており、宿敵ボカのサポーターたちから嘲笑される要因となった(もっとも、翌年のレコパでボカもシエンシアーノに敗れたこともあり、現在ボカのサポーターがリーベルをからかうネタは『2部降格』に集中している)。

 しかもリーベルが国際タイトルを勝ち取るのは、97年以来実に17年ぶりのこと。久々の快挙にサポーターが狂喜したのは当然で、ロドルフォ・ドノフリオ会長も「リーベルは以前のリーベルに戻った。降格はもはや過去の傷」と語り、その直後に勝点わずか2ポイントでリーグ優勝を逃したことさえ軽視されるほど、クラブ関係者一同が祝賀ムードに酔い痴れた。

 では、リーベルは本当に「以前のリーベル」に戻ったのだろうか。90年代当時の勢いを目の当たりにしてきた者としては、歴史の浅いスダメリカーナで優勝したくらいで「以前のリーベル」と比較することに抵抗を感じずにはいられない。

 リーベルが衰退の一途を辿り、2011年にはクラブ史上初となる2部降格の屈辱を味わった原因はいくつかあるが、私が胸騒ぎを感じたのは01年、当時の会長だったホセ・マリア・アギラールが、それまで成果をおさめていた育成部門の総監督とコーチ陣を解雇し、指導陣の総入れ替えを計ったときだった。

 90年代までは、リーベルといえば国際的にも「育成のエリート校」として知られており、アリエル・オルテガ、エルナン・クレスポ、パブロ・アイマール、ハビエル・サビオラといったスター選手を次々と発掘・育成するノウハウを学ぶため、フランスやスペインから多くの視察団が訪れていたほど。「安定した強さの秘訣は育成にあり」という、今となっては常識と化したスローガンをどこよりも早く掲げ、確実に実戦していたクラブだったのだ。

 にもかかわらず結果を出し続けていた育成部門の指導者たちが一斉に辞めさせられたときは、驚きと同時に不安を感じた。それまでは「トップチームを強化するための育成」だったのが、「有望な若手を欧州に売る」という商売優先の方針を思わせる体制となったことで、基盤の弱化は想像できたからだ。クビになったコーチのひとりが「10年後のリーベルが心配だと話していたのをよく覚えているが、まさか10年後にチームが基盤を失い、2部に降格することになろうとは彼も想像していなかっただろう。

 結局、そのコーチはトップチームの降格が決まった2011年にクラブに呼び戻され、テスト生を選考する役割を担うことになった。一度手放した「才能を見る目」を再び取り戻しただけでなく、「若手を売り飛ばすため」ではない育成の目的が今一度見直されたわけだ。

 そしてその成果は、早くも、1月からウルグアイで開催されるU-20南米選手権に向けて招集されたアルゼンチンU20代表メンバーのリストに表れた。予備登録を含む30人の選手のうち8人がリーベルの選手で、一クラブからの招集人数において最多を誇っているのである。

 8人の中には、一昨年のU-17南米選手権で優勝の立役者となったエマヌエル・ママーナ(DF)やセバスティアン・ドリウッシ(FW)の他、ディエゴ・シメオネの長男ジオバンニ・シメオネ(FW)も含まれており、かつてアイマールやサビオラ、アンドレス・ダレッサンドロといったリーベル組が主力となって活躍していた時期を思い起こさせてくれるような顔ぶれとなっている。

 リーベルが「以前のリーベル」に戻るのは、アルゼンチンサッカー界を支えるエリート校として「将来の代表選手を育て、実際に世界の大舞台に立たせる時ではないか、と思う。U-20南米選手権では、ぜひともその予兆を感じ取りたいものだ。(藤坂ガルシア千鶴=ブエノスアイレス通信員)

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