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【コラム】海外通信員

レアル、過激ウルトラスをスタジアムから追放

[ 2014年1月12日 05:30 ]

レアル・マドリードの選手
Photo By AP

 1960年代にイタリアで生まれたウルトラスという熱狂的サポーター集団が、スペインに波及したのは1980年代に入ってからだった。セビージャのウルトラス、ビリス・ノルテの前身であったペーニャ(応援グループ)、ビリ・ビリは1975年から存在していたが、初めてウルトラスとの呼称を用いた集団は当時のレアル・マドリードの若者ファンだった。ウルトラス・スルである。

 1970年代まではラス・バンデーラスというペーニャが、レアル本拠地サンチャゴ・ベルナベウでチームを鼓舞する役割を担い、すべての遠征に参加していた。彼らはチームの応援だけを目的とした温和な集団だったが、1981年にパリで行われたチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)決勝リヴァプール戦で、その存在を否定されることになった。フーリガンと称される若者たちからパリの街で暴力行為を受け、入場券などを強奪されたのである。この件を受けて、ラス・バンデーラスのグループ内に存在したウルトラス・スルのメンバーが、自らの身を守るという名目で頭角を現していき、同ペーニャから独立。この若者たちの集団が、ベルナベウの南スタンドのゴール裏を占拠するようになった。

 ウルトラス・スルの結成を発端として、スペインも他の欧州のサッカー先進国に追随する形で暴力が栄えるように。1980年代半ばには、毎週にわたってスタンドから瓶などが投げ入れられるなど、警察沙汰が絶えない状況となっていた。だが各クラブは、ウルトラスに厳格な態度を取るどころか、密接な関係にあったと噂されていた。ウルトラス・スルは1985~1995年までレアルの会長を務めたラモン・メンドーサから、チームの全面的な支持を交換条件として、裏で金を受け取っていたことが明らかとなっている。

 スペインに根付いたウルトラス文化。とりわけウルトラス・スルの活動は、次第に過激さを増していった。フランコ派のネオ・ファシストと深いかかわりを持つ同集団は、スタンド内での暴行行為どころか、選手たちとも衝突を起こすようになった。極め付けは、1998年4月1日に行われたチャンピオンズリーグ、ドルトムント戦の出来事だ。彼らは試合前にスタンドからピッチへの侵入し、ゴールを倒壊させた。当時の会長ロレンソ・サンスは彼らの処分を決定し、彼らの居場所をベルナベウの隅に追いやっている。

 それから3年後、現レアル会長のフロレンティーノ・ペレスが第一次政権をスタートした際に、スタジアムの熱狂を取り戻すとの名目でウルトラス・スルを南スタンドに再び配置。その条件として遠征費などのクラブ側からの援助は一切取り止め、スペイン国内、欧州遠征などでの暴行事件はみるみる少なくなった。だが、そうなった要因にはウルトラス・スルのリーダーを務め続けたネオナチズムの信奉者、ホセ・ルイス・オチャイタの求心力の衰退もあった。警察に幾度も逮捕されながら極右のカリスマとされたオチャイタも、もう今年で49歳。彼自身の価値観にももちろん変化が生じており、ウルトラス・スルの活動は少しずつ大人しくなっていった。オチャイタはウルトラス・スルに配分されている入場券の転売、また同集団のグッズ販売によって収入を確保していたが、半分現役を退いていたのである。

 こうして、ただの応援グループとの体を成し始めていたウルトラス・スル。だが、その本質が極右の集団であることは変わらず、年配と若者のメンバーの間で敵対関係が生まれていた。昨年11月9日のレアル・ソシエダ戦の前に、若者のメンバーがオチャイタの経営するバル“ドラッカー”を襲撃したのである。オチャイタを中心とする年配メンバーはこの件について、「(襲撃した)連中は、2年前からグループ内に緊張を走らせていた。彼らの目的はチームの応援などでなく、単に金を稼ぐことだ。そのためには暴力もいとわず、気に入らない連中を叩きのめしている」との声明を発表。若者のメンバーのリーダーが永遠のライバルであるアトレティコ・マドリードのウルトラス、フレンテ・アトレティコの元一員であり、レアルへの愛情などなく、金を稼ぐためだけにウルトラスに参加している人物であることも強調した。

 この騒動以降、スタジアムの熱狂は失われていくことになる。「その集団のことについては、何も知りたくない」とするレアルが、ウルトラス・スルの排除に動いたのだ。スペインのラジオ局『カデナ・セール』はその理由を、入場券の横流しのせき止め、政治的プロパガンダ、暴力の完全追放のためと報道。同集団はゴール裏に500席を確保しているが、レアルはまず250人を追放し、1月7日のセルタ戦から全メンバーの入場を禁じた。ペレスの方針は、35歳以下のソシオ(クラブ会員)を南スタンド全体に集中させ、ドルトムントの本拠地ジグナル・イドゥナ・パルクの名物である2万5000人の“黄色い壁”に似た、大規模な応援ゾーンをつくり出すこととされる。

 セルタ戦、ベルナベウの外にはウルトラス・スルのメンバーが集まり、「フロレンティーノ、イホ・デ・プータ(スペイン語で最大級の侮辱後)!」や「ベルナベウは墓場と化した」と叫び続けていた。では、スタジアム内は実際に墓場だったのか。いや、南スタンドのゴール裏に陣取った35歳以下のソシオたちは、必死に声を張り上げてチームを鼓舞していた。だがしかし、現役時代にレアルからバルセロナへ“禁断の移籍”を果たしたセルタ指揮官ルイス・エンリケに対しては、何度も何度も「L・エンリケ! お前の父親はアムニケ!」とのコールが叫ばれた。エマニュエル・アムニケは元ナイジェリア代表で、バルセロナでL・エンリケとともにプレーしていた黒人選手。つまりは、人種差別である。ウルトラス・スルの若手メンバーの若者側のリーダーは白人至上主義を掲げる人物とされるが、傍から見たゴール裏の変化は、ウルトラス・スルのカラーである黒い服が見えなくなっただけ。皮肉なことながら、ベルナベウは「墓場」ではなかったのである。

 こんな調子なら、ベルナベウでは今後も人種差別や、リオネル・メッシの発育障害コールが起こるはず。30年をかけて根付いた文化は、そう簡単に引っこ抜けるわけではないということだろう。(江間慎一郎=マドリード通信員)

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