阪神ドラ3・井坪 結果出ず苦しんだ高校時代…2年時はメンバー外も最上級生の自覚で才能開花

[ 2022年12月3日 05:15 ]

阪神新人連載「七人のトラ侍」 ドラ3、関東第一・井坪(下)

関東第一に進学し、1年秋から4番として起用された井坪

 両親と熟考した末の決断だった。1学年上の兄・朝陽(あさひ)さんが在籍する日大三か、それとも…。最終的に関東第一の門をたたいた背景には、明確な理由があった。

 「投手として一番成長できる環境だと思いました」

 八王子シニア時代の陽生(ひなせ)は、投打の中心選手だった。エースと主軸を兼務。関東第一に入学する前までは、投手としてのプロ入りを青写真に描いていたほどだった。だが、右膝のケガもあって早々に投手を断念。リハビリを継続しながら外野転向を決意した。当時、新型コロナウイルス感染拡大の影響もあって入寮も6月までずれ込んだ。

 「素直な子です。純粋な野球小僧という印象を受けました」

 米沢貴光監督は陽生の第一印象をそのように振り返ったが、7月から全体練習が再開すると、すぐさまプレーに目を奪われた。50メートル走6秒0の俊足を誇り、遠投100メートルの強肩。すでにチームトップレベルの素質の高さを誇っていた。

 「バットに当たれば飛ぶというのが最大の魅力だった。チームの編成上、右バッターの下級生をスタメンで起用するとなれば井坪だった」

 米沢監督は、1年秋から「4番・左翼」で起用することを決断。だが、思うような結果を残すことはできなかった。指揮官の思い描く期待値とは裏腹に結果は反比例。「当たればやっぱり飛びました。ただ、走塁への意識が全然なくてただ打つだけの選手になってしまっていた」。陽生の成長を促すためにあえて2年の春、夏はメンバーを外した。

 どん底にいた陽生が心を入れ替えたのは最上級生になった直後だった。「8月の新チームの2週間で彼はすごく成長した。練習中も泣いているような状態。しんどさを感じたと思う」。陽生は、心を入れ替えた。チームの中心選手として自覚が芽生え始めた。打てなくても下を向くことなく、その後はチームを背中でけん引。眠っていた才能が徐々に開花し、各球団のスカウトの評価も急上昇していった。

 3年間で積み上げた本塁打は32本。とはいえ、3年間の成績に「満足はしていません」と陽生は言い切った。何より、中心選手として、チームを甲子園に導くことはできなかった。

 ただ、今度はその聖地が本拠地となる。「3年目までに体をつくって、3年後にはレギュラーをとれるような選手に」。高校生だから…と甘えるつもりは一切ない。(石崎 祥平)

 ◇井坪 陽生(いつぼ・ひなせ)2005年(平17)3月17日生まれ、東京都八王子市出身の17歳。4歳から野球を始め小4から「八王子リトル」で三塁手。七国中では「八王子シニア」に所属し3年時にアジアチャレンジマッチでU15日本代表に選出される。関東第一では1年秋に4番に座るも、レギュラー定着は2年秋。高校通算32本塁打。50メートル走6秒0、遠投100メートル。1メートル77、86キロ。右投げ右打ち。

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2022年12月3日のニュース