チームマンに徹した湯原祐希さん 15年ラグビーW杯3勝、19年W杯8強入りの底流にある文化醸成

[ 2020年9月30日 17:00 ]

湯原祐希さん(2011年撮影)
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 ラグビー元日本代表で、11、15年W杯代表にも選出されたトップリーグ(TL)東芝FWコーチの湯原祐希さんが、29日に死去していたことが分かった。36歳。所属の東芝が30日、発表した。死因は非公表。29日早朝に東京都府中市のクラブハウスでのトレーニング中に倒れ、救急搬送されたものの、帰らぬ人となった。

 ラグビーには特殊スキルを要求されるため、代わりのきかないポジションがある。FWならフッカー、バックスならスクラムハーフ。ゆえに登録選手数が限られるW杯では、出番がないまま大会を終える選手が出るケースがある。野球で言えば、第3捕手に近い存在だろう。W杯代表に2大会連続で選出された湯原さんだが、出場したのは11年大会のニュージーランド戦の途中出場のみだった。だからこそ難しい立場でいかに振る舞うかが、チームの浮沈をも握ることがある。

 15年のイングランド大会では、東芝の先輩に当たる広瀬俊朗氏と2人だけ、4試合で一度も出番がなかった。だがノンメンバー(試合登録23人以外の選手)が対戦相手を研究し、練習で南アフリカやサモアを演じきったことが、歴史的な3勝につながった。そうした舞台裏での献身を、湯原さんが自ら外へ発信することは少なかったが、特に同じフロントローの選手に頼られる存在だった。言葉数が多いとは言えない本人に代わり、周りの選手が「ユハさんが…」と口にするのを何度も聞いた。

 当然のことながら、東芝に帰れば2番以外をほとんど着ることのない主力選手だった。感情を押し殺してチームマンに徹する文化を作ったのが、広瀬氏と湯原さんだった。その文化は4年後にも確実に受け継がれ、東芝の後輩に当たる徳永祥尭ら5選手が試合に出場することのなかった昨年のW杯では、日本は史上初の8強入りを果たした。

 5年前の10月9日、準々決勝進出の可能性をまだ残していた日の、1次リーグ最終戦となる米国戦の登録メンバー発表会見。エディー・ジョーンズ・ヘッドコーチ(当時)の口から湯原さんの名が読み上げられることはなかったが、「広瀬と湯原が貢献してくれたことは間違いない。それがチームの底力になった。なので将来は東芝で素晴らしい指導者になるだろう」と言った。この春で完全にスパイクを脱ぎ、本格的に指導者への道を歩み始めた矢先の訃報。日本ラグビー界にとって、あまりに大きな損失であることは間違いない。

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