その先にあった未来―故ブライアント氏の事故死で感じたこと

[ 2020年2月7日 09:00 ]

レイカーズの本拠地「ステイプルズセンター」に掲げられた故ブライアント氏へのメッセージ入りユニフォーム(AP)
Photo By AP

 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】大リーグ元ヤンキースの大打者、ルー・ゲーリッグが引退を表明したのは1939年6月21日。その2日前、のちに「ゲーリッグ病」と言われるようになる「筋萎縮性側索硬化症」の告知を受けた2日後だった。セネターズ戦でのスピーチの中で口にした「自分はこの世で最も幸せな男だ」というフレーズは、やがてスポーツ界の名セリフとして語り継がれていく。

 そして亡くなったのは1941年6月。38歳の誕生日まであと17日だった。6度のワールドシリーズ制覇、三冠王の達成、そして2130試合連続出場。病気さえなければきっとその先にも記録と栄光があったはずだが、引退表明からわずか2年でその生涯を閉じた。

 1974年。高校生だった私は英国のクイーンというロックバンドがリリースした「輝ける7つの海」という曲が入ったレコードを買った。そして当時流行していたどのバンドにもいないボーカルに驚いた。果てしなく高音域で伸びていくような弾力性のある歌唱力。そこで初めてフレディ・マーキュリーという名前を知った。

 しかし彼もまた若くしてこの世を去った。1991年11月24日、エイズによる免疫不全にともなう肺炎が死因。45年の生涯だった。エイズを引き越すHIVの検査から5年、本人の感染認識から4年7カ月、そして重病説が流布されてから1年という時間が流れていた。

 どちらも多くのファンはその先にあったはずの“未来”が消え去ったことを悔やみ、悲しみ、衝撃を受けた。ただしひとつだけ言えることがある。ゲーリッグもマーキュリーもその人生には「終わりの始まり」があり、本人、もしくは周囲の人間には「準備のための時間」がわずかであっても与えられた。悲しい出来事であるが、どんな人にも心の中に形は異なっても“緩衝材”ができていたはず。ここがヘリコプターの墜落事故で亡くなったNBA元レイカーズのコービー・ブライアント氏(享年41)、さらにその次女で将来は父同様にバスケのプロ選手になるのでは?とささやかれていたジアナさん(同13)たちと決定的に異なる部分でもある。

 現役を引退したとは言え、ブライアント氏にはまだ夢があった。自身のスポーツ施設を設立し、そこでスポーツの普及に尽力していた。4人の子どもが全員、女の子ということもあって女性スポーツの発展にも取り組んでいたという。だからまだ「その先の未来」があった。

 2020年1月25日。フィラデルフィアでの76ers戦で、ブライアント氏が保持していた歴代3位の通算得点記録を抜いたレイカーズのレブロン・ジェームズ(35)は翌26日の朝、4位となってしまった“先輩”から祝福の電話をもらった。事故はその数時間後に発生。「準備なんてできていません。この件に関して何か言わなければいけないと思ったけれど、何を書いても涙が出てしまって…」と、悲しみに打ちひしがれてジェームズがインスタグラムで心境を綴ったのは事故から48時間が経過した1月27日だった。

 ブライアント氏が亡くなったあと、NBAの各試合では同氏が現役時代につけた2つの背番号にちなみ、ティップオフ直後には「8秒(バックコートから8秒でフロントコートにボールを運ばない)」と「24秒(ショットクロック)」のバイオレーション(規則違反)をお互いのチームが故意に犯して追悼した。

 バスケットボールで時間に関するバイオレーションはこの2つと、ペイント内での「3秒」の3つしかないのだが、そのうち2つがブライアント氏の背番号だった。こんなセレモニーを営むために選んだわけではないはずだが、バスケとのあまりに深いつながりに驚くばかりだった。

 ヘリコプターは濃霧の中を急降下。猛スピードで斜面に激突したこともあって機体だけでなく遺体の損壊もひどかった。日本のメディアではほとんど報道されていないが、事故現場の斜面には立方体に近い形をした白い布が6つほどあった。遺体は担架で運ばれたのではなく、その布の中に集められていたのだ。遺体判別の方法は指紋での確認。「その先にあった未来」にも触れられず、「終わりの始まり」にも接することができず、「せめて穏やかな顔であってほしい」というささやかな願いさえもかなえてはもらえなかった。

 バネッサ夫人を含む遺族やジェームズに比べれば、私個人の存在など取るに足らないものだが、事故原稿を書きながらつい涙が出た。ジェームズ同様、準備ができないままに受け取るニュースではなかった。日本時間の1月27日早朝から夕方を迎えるまで書いた原稿は10本あまり。もうこの仕事を始めて38年目だが、こんなに長い一日は経験したことがなかった。

 コービー・ブライアント。バスケに縁とある人とそうでない人でその死に対する感じ方は違うかもしれない。ただ「もっと生きてほしかった」という思いは同じだろう。ゲーリッグの自宅を弔問して泣いたベーブ・ルース、直前までマーキュリーの病状を知らされず精神的に落ち込んでしまったクイーンのギタリスト、ブライアン・メイ…。大切な人の未来が奪われると、日常を取り戻すのが大変なのはすでに彼らが証明している。

 NBAのオールスターゲームは16日にシカゴで開催される。今年はブライアント氏が現役後半に着用していた24番と、ジアナさんの背番号でもある2番を全選手が身に着けてティップオフ。多くの人の心の中で止まってしまった“時計”が、少しでも動き出してくれることを願うばかりだ。

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

続きを表示

2020年2月7日のニュース