山県亮太を変えた“座布団ダッシュ” 秀才スプリンター 成功の思考回路の原点

[ 2019年1月16日 09:30 ]

2020 THE STORY 飛躍の秘密 

昨年のアジア大会で銅メダルを獲得した山県
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 陸上男子100メートルの山県亮太(26=セイコー)は自ら練習を考え、フォームも修正する自己管理能力に優れたアスリートだ。自発的な取り組みは、小学校高学年の“座布団ダッシュ”が出発点だった。日本歴代2位の10秒00の記録を持つ2016年リオデジャネイロ五輪男子400メートルリレー銀メダルメンバーは、来年の東京五輪でも活躍が期待される。慶大卒の秀才スプリンターは、いかにして成功の思考回路を身につけたのか。出生秘話にも迫った。

◆「なかなか切れなかった」14秒 父とのリビング練習で突破

 アスリートは飛躍的に伸びる時期がある。昨年の日本選手権男子100メートルを制した山県のソレは小5の時。自身が一番驚いた急成長を鮮明に覚えている。

 「100メートルの14秒をなかなか切れなかったんですよ。“14秒の壁”って言っていました。それで、自主トレを始めてみました」

 小4の10月に野球をやめ、陸上を始めた。最初は走るたびに速くなったが、5年になる直前に、陸上人生最初の壁にぶつかった。14秒の壁だ。

 どうしたら速くなるのだろう――。

 父・浩一さん(58)に相談した。自宅リビングで、二人三脚の練習が始まった。

 「足上げ腹筋、座布団の上での20秒ダッシュ、軽い重りを持って腕振りをしました」

 とりわけ記憶に残っているのが“座布団ダッシュ”だ。マット代わりに敷き、その場で全速力の足踏みをする。このメニューを続けたところ「一気に記録が伸びました」

 自主練を始めて約5カ月後の03年7月に開花。全国大会の広島予選で、小5の大会記録、13秒63を出した。もっとも座布団は「実は意味がなくて…。消音のためです」と練習器具ではなかったが、着実に足は速くなった。

 父に陸上の経験はない。広島市内でスポーツ用品店を経営していたことから、営業先の学校の部活で見た内容を息子に教えた。当時、鍛えるという気持ちは皆無に等しかった。「元気で育ってほしい。スポーツはその一環という感じでした」

 92年6月10日、山県は予定より2カ月早く生まれた。父は「生きるか、死ぬかでした」と、祈ることしかできなかった出生時を振り返る。見るからに小さな赤子は2カ月間、新生児集中治療室で過ごした。退院しても、1年間外出禁止だった。

 小学校では身長が前から1、2番目。筋骨隆々の今からは想像できないか細さだった。小柄な次男が、小4の夏に出た市の陸上大会の100メートル走で優勝をした。希望を感じた。

 「我が家は英才教育というものを何一つしていないんです。寝る時間も遅かったし、お菓子も食べていました。一つ思いがあったとすれば、何か秀でたことがあれば、いじめられにくくなるだろうということでした」

 健やかな成長を願う親心で、走ることに夢中な息子を応援した。

◆動画で繰り返した「PDCA」 セルフコーチングで10秒00

 試合のビデオ撮影が習慣になった。試合後、亮太は自宅で1人で黙々と見返した。父は、経営者の視点で、当時の様子を振り返る。

 「PDCAサイクルに似たことを、子供の頃からやっていました。それも自然に」

 Plan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)を繰り返すことで、業務の改善につながるという経営学の言葉だ。自主練→試合→映像チェックはその典型例。現状に満足することがないから、結果に一喜一憂する姿を見せなかった。

 「優勝して褒めても、気のない返事が多かった。亮太にとって大事なのは、練習をいかに試合で再現するかだったんだと思います」

 山県は長年コーチを置いていない。頼るのは、撮りためた7000本もの動画。好不調の全てを記録した映像を見て、自分で走りを修正する。

 考え、行動し、原因を探り、向上させる。このスタイルで、日本歴代2位の10秒00を出すトップ選手になった。昨年のアジア大会は2度目の自己記録で銅メダル。9秒台は、時間の問題だ。小学時代の“座布団ダッシュ”から始まったセルフコーチングは、東京五輪に向かって続いていく。

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