栃ノ心 大型書店にもジョージア語の辞書なく…突き当たった言葉の壁

[ 2018年5月30日 10:30 ]

伝達式を終え鯛持ちを行う新大関の栃ノ心
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 日本の第一印象は「あ、空気がない」だった。欧州出身では3人目の大関となる栃ノ心の初来日は、04年夏に堺市で開催された「第5回世界ジュニア相撲選手権」。欧州にはない蒸し暑さに驚き、息苦しく感じたのだ。

 このとき初めてまわしを締めて稽古した。母国ジョージアには土俵がない。稽古はマットの上。本来は専用の柱を手のひらで突く「テッポウ」も、木の板を手に持った稽古相手を柱にみたてて、やっていた。「今思うと面白いね」と懐かしむ。

 それでも無差別級3位入賞。翌05年、東京で行われた第6回大会では準優勝し、相撲関係者の目に留まった。栃ノ心にとって、柔道やサンボと比べて経済的にも相撲は魅力的だった。

 一時帰国後に両親を説得し、決意を固めて再来日。日大で稽古を続けて角界入りの道を探っていると、06年2月、日大OBで出羽海部屋の元十両・出羽平から春日野部屋を紹介してもらい、入門にこぎつけた。「2年で関取になる」と言ったら「それは無理」と言われ、かえって燃えた。しかし言葉の壁は想像以上にきつかった。

 部屋関係者が大型書店を探しても、ジョージア語の辞書はなかった。翻訳サイトで見つけた基本単語を印刷し、部屋を挙げてバックアップ。会話できない寂しさを、同じくジョージア出身の臥牙丸(木瀬部屋)と連日アイスクリームを食べながら励まし合い、紛らわした。

 日本語の上達とともに番付も上がり、08年初場所で新十両。宣言通りの2年で関取。ハングリー精神もあった。当時を知る春日野部屋のあるOBは、幕下時代の栃ノ心から「2万円でも3万円でも、ジョージアに送れば大金です」と言われたことを覚えている。(相撲取材班)

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2018年5月30日のニュース