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【今西和男 我が道14】日本が強くなるためには…クラマーさんに指導方法を学ぶ

[ 2026年2月14日 07:00 ]

代表のブレザー姿で(前列右が森孝慈さん、後列左が宮本輝紀さん、同右が筆者)
Photo By 提供写真

 4連覇を達成した1968年(昭43)は、腰の痛みがひどくなり、ほとんど走れなかった。私は負けず嫌いで「痛くて練習できない」とは言いたくないので、無理を重ねた。これがいけなかった。病院で診察してもらうと脊柱管狭窄(きょうさく)症と判明。脊椎の間の軟骨がつぶれて、神経が圧迫され、痛みが出ていた。スポーツ選手に多く、医師には「治らない」と言われ、痛みを和らげるしかなかった。練習が終わると、柔道整復に通うのが日課だった。

 腰に加えて膝も痛めてしまった。試合中に、相手選手にスライディングタックルした時、膝の上に乗っかられて左足が動かなくなった。今は整形外科が発達して、治療方法も確立されたが、長年無理してサッカーをやってきたつけで、まともにプレーができなくなってきた。東洋工業病院の整形外科にサッカー選手をよく知る医師がいたので、アドバイスを受けながら練習したが、限界だった。走れないと、選手として必要な体力の維持もできない。釜本邦茂のように体が大きく、フィジカルの強い選手や杉山隆一のようにスピードのある選手が増え、対峙(たいじ)するDFも技術が求められるようになり、次第に若手にポジションを奪われて試合に出られなくなってきた。

 この頃、曲がらない左足首を治そうと、ケロイドとなって固まっていた左足首の手術も受けた。少しは改善されたが、左足で普通にボールを蹴ることはできなかった。「何で私が」と思ったが、自分ではどうすることもできなかった。

 この年は前半戦は出場したが、後半戦の出場は1試合のみ。10月のメキシコ五輪の日本代表にも選ばれることはなかった。東洋工業は日本リーグ4連覇を達成したが、私はあまり貢献できなかった。12月の天皇杯は初戦の早稲田大学戦に先発出場したが、0―2で敗れた。69年1月にはタイで開催されたアジアクラブ選手権に出場し3位になったが、私は出場機会がなかった。

 9月には千葉の東大検見川グラウンドで、FIFA主催のコーチングスクールが開催され、日本リーグ各チームの監督、コーチ、選手も一部受講することができた。講師はデットマール・クラマーさん。指導は分かりやすく、ボールを止める、蹴るの正しい基本の反復だった。クラマーさんの手本は素晴らしく、キック、トラップなど、魔術師のように自由にボールを扱ってみせた。実は、クラマーさんには東京教育大学3年生の時にも指導を受けたことがあった。来日した時から「日本が強くなるためには、選手を鍛えるだけでなく、指導者の養成も大きな要素」と言っていた。東京教育大学は学生の大半が卒業後は教員になる。「全国に散ってサッカーを広めてくれる」ということで、指導方法などを教えてくれた。

 ◇今西 和男(いまにし・かずお)1941年(昭16)1月12日生まれ、広島市出身の85歳。広島市立舟入高から東京教育大(現筑波大)を経て東洋工業(マツダ)入り。俊足とハードタックルが武器のDFとして活躍。日本リーグ42試合、日本代表11試合出場。引退後はマツダの監督、総監督を務め、日本初のGMと言われた。サンフレッチェ広島の設立に尽力、日本サッカー協会強化委員、FC岐阜社長などを歴任。

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