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【釜本伝説アラカルト】クラマー氏と出会い反復練習で才能開花 日本サッカーのためにいつも一肌脱いだ

[ 2025年8月11日 05:00 ]

釜本邦茂さん死去

05年、ともに日本サッカー殿堂入りし、喜びを分かち合うクラマーさん(左)と釜本さん
Photo By 共同

 1968年メキシコ五輪で得点王に輝き、日本サッカー界に銅メダルをもたらした元G大阪監督、元参院議員の釜本邦茂(かまもと・くにしげ)さんが10日午前4時4分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため大阪府豊中市内の病院で死去した。81歳だった。24年9月に体調を崩して入院。一時回復したが、今年6月上旬に容体が悪化し緊急入院していた。通夜と告別式は近親者で行い、後日、お別れの会を開く予定。日本最多の国際Aマッチ75得点を誇る不世出のストライカーが天国に旅立った。

 【釜本伝説アラカルト】
 ◇幼少期は小柄ないたずら小僧 京都・太秦の町で障子破りやチャンバラごっこを繰り返し、評判のやんちゃ。罰として母・よしえさんから庭の桜に縛り付けられることも。負けず嫌いな性格は母譲り。

 ◇心をつかんだ「世界」 太秦小低学年時は三角ベースのスター打者。プロ野球選手に憧れるが、恩師に「サッカーは世界のスポーツ。五輪にも出られる」と口説かれ、蜂ケ岡中でサッカー部に。

 ◇キックの原点は石蹴り 強豪の蜂ケ岡中入学時はボールを蹴らせてもらえず、通学路での石蹴りで技術を探究。真っすぐ石を飛ばすことに集中し、基礎を学ぶ。

 ◇背番号は0? 中学入学時の身長は1メートル40そこそこ。1年生の秋の大会で初めてもらった背番号「8」のユニホームは、短パンに半分以上が隠れて「0」に見えた。

 ◇急成長は父のおかげ? 小柄なサイズを心配した父・正作さんが鶏肉を使ったスープを作るようになった中学2年時、2~3カ月で身長が18センチ伸びる。銭湯や川の中で水を蹴るトレーニングをあみ出し、キック力も一気に向上。

 ◇進路選択の中心はいつもサッカー 弁護士になることを希望した父は学区内の普通科進学を薦めたが、学区外で商業科にしか進めなかったサッカーの強豪・山城高へ。大学も関学大を薦める父を周囲が口説いて早大に進学。

 ◇運命の出会い 高2の春、関西選抜を指導に来たデットマール・クラマー氏に初めて指導を受ける。当時はプレースピードが遅く「ホッカイドーグマ」とあだ名を付けられる。反復練習で基礎技術を習得。ヘディング練習器具(ペンデルボール)で空中戦の強さも身につける。

 ◇絶対的ゴール感覚 早大1年時、右45度のペナルティーエリア右隅から振り向きざまに打つシュートを徹底的に練習。1年時から関東大学リーグで4年連続得点王。4年時の1966年は全国大学選手権だけでなく天皇杯も優勝。

 ◇衝撃から生まれたガマ・キック 66年の欧州遠征中にW杯イングランド大会を観戦。ポルトガル代表FWエウゼビオのプレーに感銘を受けて研究。軸足の左足をボールより前に出し、右足の甲で爆発的な力を与える“ガマ・キック”を体得した。エウゼビオには70年の来日時にサインをもらう。

 ◇ゴール禁止令 68年メキシコ五輪1次リーグ最終戦のスペイン戦は2位通過を狙うために得点を“自重”。0―0で狙い通り2位となり、準々決勝でフランスを3―1で撃破。

 ◇ミスキックで先制点 開催国メキシコと対戦した五輪3位決定戦。前半20分の好機にボールは甲ではなく親指に当たる。結果的にフェイントとなり先制に成功。前半にもう1点追加し、銅メダルとともに7得点で五輪得点王に。

 ◇海外移籍を断念 五輪で得点王に輝いた後、欧州だけでなく南米のプロクラブから誘われる。しかし69年のW杯メキシコ大会予選前にウイルス性肝炎に罹患(りかん)し50日間に及ぶ入院生活で断念。74年の西ドイツ大会、78年のアルゼンチン大会とW杯予選に出場も、ともにケガに泣く。

 ◇選手兼監督で金字塔 代表引退後の78年からヤンマーのプレーイングマネジャー。80年にリーグV、81年には日本リーグ初の200ゴールに到達。

 ◇日本サッカーのために一肌脱ぐ 日本リーグ20周年を記念して84年1月にヌードポスターを撮影。街頭のポスターは盗まれ、1枚1000円の1500枚はすぐに完売。撮影1カ月後の84年2月13日、正式に引退を表明した。

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