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中村俊輔の恩師・佐熊裕和氏が手記「挫折して力を付けて、はい上がって来る人間力のある選手でした」

[ 2022年10月18日 12:02 ]

選手に指示を出す、桐光学園・佐熊裕和監督(2013年1月04日撮影)
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 J2横浜FCの元日本代表MF中村俊輔(44)が18日、今季限りでの現役引退を発表した。元桐光学園監督で中村の高校時代の恩師・佐熊裕和氏(58=新潟医療福祉大監督)がスポニチに手記を寄せた。監督として指導した3年間を振り返り、愛弟子への熱い思いをつづった。

 17日朝、俊輔から連絡がありました。その前日と前々日にも着信がありました。私が忙しくて電話に出られなかったのですが、何となく引退の話だろうと感じていました。

 俊輔は義理堅くて、シーズンが終わるこの時期に毎年連絡をくれます。2、3年前から「ケガの治りが遅くなった」とか、そういう話をしていたので、そろそろかなと思っていました。

 電話でも「足の具合があまり良くないので引退を決めた」と言ってました。ここ数年は毎年引退を考えながらプレーしていたようです。「(クラブに)あと1年やってくれと言われてやってきたけど、いつ引退してもおかしくなかった」と話していました。

 あいつは天才でも何でもなく人1倍、人2倍、人3倍、考えられないような努力をしてきました。2002年W杯で落選したこともそうですが、挫折して力を付けて、はい上がって来る人間力のある選手でした。私自身が彼をリスペクトしています。本当にお疲れ様と言いたいですね。

 俊輔は横浜の下部組織で育ちましたが、ジュニアユースからユースに上がれず、桐光学園に入学してきました。当時は体が小さくて細かった。中学1年生か2年生と同じくらいでした。1年生の時は試合に出られず悔しい思いをしたはずです。

 ただテクニックは凄かった。ミニゲームではみんなが見入ってしまうような感じでした。その技術を努力で磨いていきました。誰よりも早くグラウンドに来て、誰よりも遅く帰る子でした。特にFKと、1対1の練習をよくやっていました。当時、FK練習用の黄色い壁を買ったんですが、毎日出してきて、1人で蹴っていました。

 一番の思い出は3年の時の全国高校選手権です。決勝で(市船橋に)負けた後に「これは通過点」と言ったんです。悔しかったと思いますが、そういうことは一切出さなかった。横浜入りは決まっていましたし、常々プロになって試合に出て、日本代表に入りたいと言っていましたから、将来を見据えていたんでしょうね。凄く大人だなと思いました。

 プロになった後も頻繁に桐光学園の練習に顔を見せました。2002年W杯で落選した後も、ケガをしている時にも来て、土のグランドで高校生と一緒にボールを蹴っていました。原点を思い出すというか、いい息抜きになっていたのではないかと思います。

 サッカーだけでなく勉強も頑張っていました。だから教員もみんなが応援していました。2006年W杯の時も、サッカー部だけでなく、学校全体で応援してました。サッカーに興味がない人も応援したくなる。そういうのはあいつの人間性だと思います。

 もうプレーが見られないのは残念です。でも、やれることはやったんじゃないですかね。W杯にも出たし、海外にも挑戦した。そういう中で培ったものをサッカー界に還元してもらいたいです。

 感覚的なものは本人しか分からないところもあるでしょうけど、エリートではなく、多くの挫折を経験しているから、指導者向きだと思います。俊輔がどんなチーム作るのか、見てみたいです。(元桐光学園監督、現新潟医療福祉大監督)


 ◇佐熊 裕和(さくま・ひろかず)1963年(昭38)12月1日生まれ、東京都出身の58歳。本郷高―日体大。86年桐光学園監督就任。全国高校サッカー選手権は7回出場し96年度準優勝。インターハイは11回出場。中国プロリーグでの指導を経て14年新潟医療福祉大監督就任。同大健康科学部教授。

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