山本寛斎さん死去 日本を時代を常識を飛び越えたファッションデザイナー、急性白血病発症から5カ月

[ 2020年7月28日 05:30 ]

山本寛斎さん
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 国際的なファッションデザイナーでイベントプロデューサーとしても活躍した山本寛斎(やまもと・かんさい、本名同じ=やまもと・のぶよし)さんが21日、急性骨髄性白血病のため死去した。76歳。横浜市出身。葬儀は親族で行った。お別れの会も検討している。英国のロック歌手デビッド・ボウイさんの前衛的な衣装を手掛け名声が世界的に。ファッションの枠を超えた大規模ショーで驚かせ、日本文化の世界進出の道筋をつくった。

 次女で女優の山本未來(45)が27日、自身のインスタグラムで寛斎さんの死を報告した。「家族がみとる中、安らかに76歳にてこの世を旅立ちました。穏やかで、寛大で、人懐っこく、コミュニケーションを大切にし、無償の愛を与えてくれた存在でした」と思いをつづった。

 異母弟である俳優の伊勢谷友介(44)もインスタを更新。病床の寛斎さんから「俺の生き方、どうだ?」と聞かれ「凄いです。世界のファッションに早くから挑戦して、イベントの演出家として大きなショーを現実にしたことも」と返答したと明かした。寛斎さんは満足げに小さくうなずいたという。

 寛斎さんは今年2月に急性骨髄性白血病を発症し、3月31日に公表し闘病。今月31日にはプロデュースするオンライン・ファッションイベント「日本元気プロジェクト2020スーパーエネルギー!!」が控えていた。

 寛斎さんは日大中退後、デザイナーのコシノジュンコさん(80)に師事。1971年にロンドンで日本人として初めてファッションショーを開催した。瞬時に衣装を変化させる歌舞伎の“引き抜き”などを使った演出で日本の美を表現し世界の度肝を抜いた。この奇抜なファッションにボウイさんが目を付け交流がスタート。73年4月の来日公演では衣装を手掛け「出火吐暴威」の当て字の衣装が話題を呼んだ。

 74年にパリ・コレクションで「服で勝負しろ」と酷評されたこともある。その後、イベント演出へと進出し、93年に外国人としては初めてモスクワの「赤の広場」でスーパーショーを開催し約12万人を動員する大成功を収めた。国内でも05年の愛知万博や、16年東京五輪招致イベントなど大規模イベントに欠かせない存在となった。

 7歳の時に両親が離婚。父親の育児放棄により高知の児童養護施設に入れられた。幸せそうな家庭の様子を見て寂しさを覚え、これが「人を喜ばせたい、元気にしたい」というモットーの原点になった。

 晩年のライフワークだった「日本元気プロジェクト」のサイトには「どんな未来も着こなしてやる!!」の文字。その言葉通り、昨年は北極圏に足を運ぶなど常に挑戦を続けた。16年のリオデジャネイロ五輪の開閉会式では本紙の取材に対応。費用が前面に出る昨今の五輪を憂えた。「リオから学んだことを咀嚼(そしゃく)し、いろいろな才能が束になって、日本の良さを十分に伝えられる素晴らしいものになればいいと思う」と東京五輪への思いも語った。延期になっていなければ東京五輪開催中の訃報。寛斎さんの功績は、金メダルにも負けない輝きを放ち続け、日本を元気にし続けてくれるに違いない。

 ◆山本 寛斎(やまもと・かんさい)1944年(昭19)2月8日生まれ、神奈川県出身。日大英文学部を中退し、ファッションの世界に。67年「装苑賞」受賞。71年のロンドンを皮切りに、パリ、米ニューヨークでコレクション参加。93年以降はイベントプロデューサーとしても活躍。役者にも挑戦し、03年映画「青の炎」に出演した。

 ▽急性骨髄性白血病 白血病は骨髄性とリンパ性、慢性と急性に大きく分けられる。急性骨髄性白血病は、骨髄の造血幹細胞が血液を作る過程で、未熟な血液細胞である「骨髄芽球」に何らかの遺伝子異常が起こりがん化した細胞が無制限に増殖することで発症する。息切れや倦怠(けんたい)感などがみられる。発症頻度は10万人に1~3人といわれる。化学療法、放射線療法、骨髄移植療法などの治療を行う。近年、1回3000万円を超える高額な薬の保険適用が認められるなど、使える薬が増え、治療の選択肢も豊富になっている。 

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