ドン小西氏 寛斎さんは「ファッションで文化をつくる第一人者」 先輩に敬意「名前は後世に残っていく」

[ 2020年7月28日 05:30 ]

06年、サッカーキリン杯での日本代表の壮行イベントをプロデュースした山本寛斎さん(撮影・西海健太郎)
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 国際的なファッションデザイナーでイベントプロデューサーとしても活躍した山本寛斎(やまもと・かんさい、本名同じ=やまもと・のぶよし)さんが21日、急性骨髄性白血病のため死去した。76歳。

 山本寛斎さんはデザイナーの概念を大きく変えた。それまでコツコツと縫製する職人のようなイメージを大転換。単に着飾るための服を作るだけでなく、音楽や空間演出などを含めてファッションで文化をデザインする先駆者となった。

 寛斎さんは大学や専門学校でデザインを学んだのではなく、コシノジュンコさんらの元で針仕事を担当する“お針子”をしながらデザイン画を独学した。1960年代後半から70年代初頭に頭角を現した。誰もが経済成長を実感し、東京五輪、大阪万博を経て国際化の波が押し寄せた時代だった。

 「それまでデザイナーの世間的なイメージはものづくり職人。これを覆したのが寛斎さんだった」。こう評したのは何度も一緒に仕事するなど親しかった後輩デザイナーのドン小西氏(69)だ。19歳の頃に西武渋谷店のセレクトショップ「カプセル」で初めて購入したのが寛斎さんの服。「ピタピタの黒いTシャツで、花札がプリントされていた。凄く斬新で“ファッションは自由でいいんだ”と背中を押された」と振り返った。

 小西氏は「既成概念にとらわれない独創的な作品で、遠慮も迷いも感じられなかった」と分析。デザインで際立っていたのは日本の美意識である婆娑羅(ばさら)。「わびさび」の対極にある華美な飾りで安土桃山時代に流行したものだ。戦国の寵児(ちょうじ)となった織田信長や豊臣秀吉のように寛斎さんは新時代の扉を開けた。

 71年に日本人デザイナーとして初めてロンドンでファッションショーを開催。歌舞伎や凧(たこ)に発想を得た色鮮やかな作品はデビッド・ボウイさんをはじめ、エルトン・ジョン(73)、スティービー・ワンダー(70)ら世界のトップアーティストに支持され、時代に鋭敏な若者の人気を得た。

 奇抜なアイデアが膨らみすぎたのかロックバンドなどを入れたファッションショーを「洋服で勝負しろ」と酷評されたことも。それでも「失敗を恐れず走り続けた。持ち前の求心力でイベントのプロデュースも積極的に行い、音楽や空間演出を駆使してファッションで文化をつくる第一人者だった」と小西氏。「多忙な中、新人のショーにもよく足を運んでいた」と次世代にたすきをつなぐ準備も忘れなかった。「体は旅立っても名前は後世に残っていく。寛斎さんは不滅です」としのんだ。

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