弘田三枝子さん急死…「人形の家」で劇的復活“パンチのミコちゃん”眠るように旅立ち

[ 2020年7月28日 05:30 ]

歌唱力とルックスを兼ね備えた弘田三枝子さん
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 「人形の家」(1969年)などのヒット曲で知られる歌手の弘田三枝子(ひろた・みえこ、本名竹永三枝子=たけなが・みえこ)さんが21日午後10時31分、心不全のため千葉県内の病院で亡くなったことが27日、分かった。73歳。東京都出身。葬儀は親族、関係者で26日に済ませた。関係者によると、持病もなく「眠るような安らかな顔で旅立った」という。

 所属事務所によると弘田さんは20日、千葉県内の自宅寝室で普段着で倒れているところを、様子を見に来た東京都在住の姉(76)に発見された。当時は息があり、病院に搬送されたが意識が戻ることなく、21日に姉にみとられ亡くなった。

 自然環境の良さを求めて約10年前に千葉に一人で移住。大病の経験や持病はなく、前日も元気だったという。葬儀は熱心に信じていた神道に基づく「神葬祭」で営まれた。喪主は一人娘である長女(41)が務めた。

 昨年12月8日に名古屋市の星神社で行った歌唱奉納が最後のステージとなった。今年はデビュー60周年だったが、新型コロナウイルスの影響で記念ライブや楽曲制作が全て延期。買い物に出る以外は自宅にこもっていたという。最後の肉声は、6月15日に日本歌手協会のYouTubeに寄せた電話コメント。「早く皆さんに会いたい」などと話していた。

 マネジャーは「本人とは、いろいろ延期になって残念だねという話をしていた」と突然の死を悔やんだ。「最後に音楽をできなかったので、盛大に歌で送ってあげたい気持ちはある」と“音楽葬”のようなお別れの会を検討しているという。

 弘田さんは14歳だった61年に「子供ぢゃないの」でデビュー。歌唱力とルックスを兼ね備えた過去にない存在感を発揮し“パンチのミコちゃん”と呼ばれた。その後低迷するもイメージチェンジを図った「人形の家」が累計約57万枚(オリコン調べ)を売り上げた。

 再出発に伴い大幅な減量をし、ダイエットブームの先駆けに。70年に発売した「ミコのカロリーBOOK」は150万部を超すベストセラーになった。奔放な恋愛も注目され、77年には交際相手の妻に刃物で刺され騒ぎになった。その後、渡米して知り合った日本人男性と78年9月に挙式もスピード離婚し帰国。女性の新しいライフスタイルを見せた。

 関係者は「ここ20年ほどは神社参拝に凝り、もっぱら“神社が恋人”だった」と話す。5月に伊勢神宮を参拝するはずだったが中止。「熱望していたので、それが一番の心残りでは」と話した。

 ▼伊東ゆかり(同時代に活躍)進駐軍慰問時代のお互い小学生の時代からの仲間であり、いつも良きライバルでした。レコードデビュー後は「ヴァケーション」など同じ曲を競作することが多く、周りから「ミコちゃんみたいに歌え!」とよく言われたものでした。その後もお仕事で何度もお会いしました。「ちゃんとご飯食べるのよ」「転ばないでね」なんて心配していました。

 《驚き「別人」カムバック》弘田さんのデビュー期に東芝音楽工業(現ユニバーサルミュージック)でディレクターを担当した草野浩二さん(82)は、69年の「人形の家」でのカムバックを「別人だと思うぐらいの変わりようにとても驚きました」と振り返った。
 草野さんは61~63年のデビュー期を担当。弘田さんは当時10代で、地味な印象だったという。それがカムバックした時には一変し「“ミコが凄いよ”と聞き、慌ててテレビで見てビックリした覚えがあります」と回想。「歌唱力だけでなくビジュアルもいい歌手は当時珍しかった。64年の東京五輪を境に一気にテレビが家庭に普及した時代。歌唱力や作品の良さに加え、ビジュアルの良さも『人形の家』のヒットにつながったのではないでしょうか」と分析した。

 ◆弘田 三枝子(ひろた・みえこ)さん 本名竹永三枝子。1947年(昭22)2月5日生まれ、東京都出身。小学生の頃から米軍キャンプで歌い「ヴァケーション」など洋楽カバーの和製ポップスを中心にヒットを連発。62年のNHK紅白歌合戦に初出場し、通算8回出場。サザンオールスターズの桑田佳祐がファンを公言。「チャコの海岸物語」の歌詞にある「ミーコ」のモデルともいわれている。

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