鹿賀丈史「厳しさの奥に優しさがある人だった」市村正親「偉大な演劇のお父さん」

[ 2018年7月19日 05:30 ]

浅利慶太氏死去

涙ながらに浅利慶太さんとの思い出を語る鹿賀丈史(撮影・会津 智海)
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 鹿賀丈史は東京・目黒の所属事務所で会見し、「浅利先生がいなかったら今の僕はいない」と感謝した。

 1972年、劇団四季に入団。翌73年、まだ研究生だった鹿賀をミュージカル「イエス・キリスト=スーパースター」の主役に抜てきしたのが浅利さん。「LPレコードを聴いて一緒に勉強した」と二人三脚で公演を成功させた。「バカヤロー」と怒声を浴びたことは数知れない。それでも、79年に退団を申し出た時には「いいんじゃないか」と黙って送り出してくれた。

 浅利さんは芸名の名付け親でもあった。「鹿のように俊敏で、澄んだ目をしていろ」と言われ鹿賀になったと明かした。

 最後に会ったのは2000年。銀座の飲食店で偶然会って酒を飲みながら語り合った。その後、直筆で「あの時は酒を飲んでいてきついこと言ったけど、ごめん」と書かれた手紙が届いた。「一から育てていただき、気にかけてもらい本当に感謝している。厳しさの奥に優しさがある人だった」。目には涙があふれていた。

 鹿賀とデビュー作が同じ市村正親は、大阪での舞台を終えて帰京後、報道陣に対応。1年先に入団し主役を張り続けていた鹿賀に対して、市村は舞台に欠かせない存在として「おまえはステーキの横のクレソン」と浅利さんから励まされた。当時は「俺は葉っぱか…」と落ち込んだ。それでも「丈史が太陽なら俺は月。寿司にはわさびが必要だ」と気を持ち直し演技にまい進。周囲から「市村さんの背中には寂しさがある」と評価を受けるようになった。16年に稽古中に会って「おまえの芝居が見たい」と言われたのが最後。「僕の8割は浅利さんの演技論でできている。偉大な演劇のお父さんです」と慕う恩師へ「ミニステーキぐらいにはなれたかな」と感謝した。

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