弘田三枝子 母娘二人三脚で歩んだ歌手人生「まるで菩薩さまのような人」

[ 2016年12月25日 09:30 ]

「歌謡フェスティバル」で歌う弘田三枝子
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 弘田三枝子(69)の歌を聴いた。悲しい恋の「人形の家」、そして、人気アニメ「ジャングル大帝」の「レオのうた」。かつて「ポップスの女王」と呼ばれた歌声は健在。紆余(うよ)曲折の彼女の人生を支えたのは寛大な母の愛だったという。天才少女から紅白歌手へ、母娘2人で歩んだ知られざる物語…。

 赤く色づいた枯れ葉が風に舞う。夕暮れの街はどこか寂しげだ。汚れた雑居ビルの向こうからかすかに歌が流れてきた。それが「人形の家」(1969年)。初めて聴いた時、子供心に不思議に思った。誰かに「顔も見たくないほど嫌われる」ことなんて本当にあるのだろうか。時は過ぎた。いつしかその訳も分かるようになった。

 「それまでこういう楽曲を歌ったことがありませんでした。凄く新鮮でしたけど、難しい詞をどう表現すればいいのか悩みましたね。これだけは他人に教えてもらうこともできませんから。片思いばかりの自分の気持ちから精いっぱい想像して歌っていたのかもしれませんね」

 作詞はヒットメーカーのなかにし礼さん、曲を付けたのは川口真さん。弘田はまだ21歳だった。若い歌い手の不安な気持ちを察してか、レコード会社の担当ディレクターに連日作曲家のもとへ連れて行かれた。朝から晩までレッスンの繰り返し。特別にアドバイスされることはなかったが、「今思えばきっと歌い込むことが詞の心を知る唯一の方法と考えていたのではないでしょうか」。

 録音当日、都内のスタジオで初めてなかにし礼さんに会った。すると、いきなりこう告げられた。「ミコ、この曲で女を上げるぞ」。順調にレコーディングは終了した。それまでの「すてきな16才」など米国のカバー曲のイメージから一新、弘田三枝子が大人の歌手になった瞬間だった。

 この人の音楽活動は実に本格的だ。単身「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に参加したのは、東京五輪の翌年。フランク・シナトラ、カーメン・マクレエ、クインシー・ジョーンズらの大物と同じステージに立った。エラ・フィッツジェラルドが初来日した際、知り合いのジャズ評論家に紹介された。その時、エラに本当の娘のように気に入られ、「私の養女になってほしい」と懇願されたこともあった。

 「カーメンからも宿泊先のホテルに呼び出され、部屋で一緒に楽しく歌っていました。今では信じられないことが、あの当時は起きていたんですね」

 そして、もう一曲、彼女には記念すべき歌がある。手塚治虫原作のアニメ「ジャングル大帝」のテーマ「レオのうた」(65年)だ。今で言えば、人気のアニソン。作曲したのは、冨田勲さん。「最初は大変な仕事を受けてしまったなという感じでした。でも、立派な先生は本当に何もおっしゃらないんですね。お二人とも“あなたの好きなように歌ってください”だけでした」

 悩んだ末、広大なアフリカの大地のイメージを出すために、頭の中で宇宙を想像するようにした。今でもこの歌を歌うと、彼女の目の前には無数の星たちが美しい光を放っているという。

 歌うことが何よりも好きな少女だった。小学4年の時に米軍キャンプのステージに立った。「ダイアナ」「ボタンとリボン」などアメリカンポップスを英語で披露した。すると、愛らしい姿と歌声に将校たちがヤンヤの喝采を浴びせた。「歌手になりたい」。夢の扉を開いてくれたのは、母ヨシコさんだった。

 「芸能界とは全く縁がないのに、私のために英語の歌を教えてくれる先生を探したり、オーディション情報を集めたり、衣装まで手作りしてくれました。もちろん、どこへ行くのも一緒でしたね。一から十まで私のために尽くしてくれました」

 小さな娘がたとえわがままを言っても失敗しても決して怒鳴ったり声を荒らげたりすることはなかった。「三枝子さん、大丈夫よ。心配しないでいいの」。どこまでも優しく冷静な母親だった。そんな無償の愛の支えもあって、14歳で東芝からヘレン・シャピロのカバー曲「子供ぢゃないの」でレコードデビュー。翌年、コニー・フランシスの「ヴァケイション」が大ヒット。念願の紅白歌合戦初出場を果たした。

 「ラジオの時代から必ず大みそかは家族で聴いていました。出場が決まった時は夢のようでしたね。でも、その時も母は“よかったわね”とにっこりほほ笑むだけでした。きっと私と同じように興奮したら娘が舞い上がってしっかり歌えなくなると思ったのではないでしょうか」

 長い芸能生活。大きな壁にぶつかったり、押しつぶされそうになったこともあった。何度か「お母さん、私もう歌えない」と泣きながら訴えたこともあったが、「三枝子さん、やめたければやめていいのよ」と全てを受け入れてくれた。その言葉に、弘田はいつも崖っ縁で踏みとどまることができた。

 最愛の人との別れは、99年4月22日。その日の朝、コンサートの前に病室を見舞うと、ヨシコさんが「私はもうあっちに行ってるからね。でも大丈夫よ」と一言。静かに天国を指すように人さし指を上に向けた。

 「母がいなかったら今の私はいません。良いことも悪いことも全てを包んでくれました。まるで菩薩(ぼさつ)さまのような人。これまで歌を続けているのも母のためかもしれません」

 母娘二人三脚で歩んだ歌手人生だった。

 ◆弘田 三枝子(ひろた・みえこ)1947年(昭22)2月5日、東京都出身の69歳。ヒット曲「人形の家」「ロダンの肖像」などで紅白歌合戦に8回出場。抜群の歌唱力で「ポップスの女王」ともいわれた。愛称はMICO(ミコ)。来年3月16日、東京・代々木上原の古賀政男音楽博物館けやきホールで行われる「第34回コロムビア マンスリー歌謡ライブ」に出演する。

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