健さん貫いた美学 病床の姿見せたくない…見舞い許したのは2人だけ

[ 2014年11月21日 05:30 ]

10日に亡くなった高倉健さん

 「“鉄道員(ぽっぽや)”の主人公のように死にたい」と身近で世話をする人に告げ、その言葉通りにひっそりと旅立った高倉健さん。スポニチ本紙の取材では見舞いを許された関係者は2人だけ。臨終にも病院スタッフだけが立ち会った。最後まで貫いた男の美学。10日に83歳で永眠した健さんゆかりの場所には、追悼に訪れる人の列が絶えない。

 北九州市で暮らす縁戚も悲報に驚いたという。体調が悪いという情報は耳にしていたそうだが、身内にも詳しい病状は伏せられていた。

 若い頃からボクシングや相撲で鍛え、スクリーンに映える鋼のような肉体をつくった健さんが前立腺がんを患ったのは5年ほど前。手術で克服したが、それ以降、欠かさず定期検診を受けるようになった。今年初夏の検査で見つかったのが悪性リンパ腫で、入退院を繰り返すようになった。その間、8月には健康食品のCM撮影をこなし、東京都世田谷区の自宅周辺でも近所の人とあいさつを交わしている。

 しかし、それ以降、健さんの目撃証言は消える。入院期間が長くなり、小康状態のときも自宅には戻らずに信頼あつい知人宅に身を寄せていた。完治して何とかもう一本…健さんは復帰に執念を燃やした。降旗康男監督(80)と組む予定だった「風に吹かれて」だ。ところが、病魔は速度を上げて肉体をむしばんでいった。

 満州事変が起こった1931年に生を受けた健さんの身長は1メートル80。その頃の人間としては大きい。いつでも新作映画の撮影に入れるように体のケアには怠りがなかっただけに、病床の姿は見せたくなかったのだろう。「いよいよ危ない」となったときに、世話をしていた知人から映画会社2社のトップにだけ伝えられたが、2人が見舞った際には既に意識がなかったという。誰に宛て、どんな内容かは不明だが、遺書もあったそうだ。

 駅のホームで倒れ、ひっそりと最期を迎えた「鉄道員」の主人公。事務所の人間さえも臨終に立ち会うことを遠慮したという。80年公開の「動乱」以降、方向性の違いから東映と疎遠になった健さんが19年ぶりに主演した東映作品が「鉄道員」だった。

 青春時代に苦楽をともにした撮影所スタッフが定年時期を迎えていた。「最後の記念写真を撮ってほしい」という活動屋たちの熱い声に心動かされた健さんは快諾。記念写真どころか、「鉄道員」という活動写真が出来上がった。東映復帰にはこんな秘話があった。撮影終了の日、スタッフは男泣き。そっと逝った健さんはいまわの際に本当に「鉄道員」と同化していたのかもしれない。

 ≪黄色いハンカチ広場にファン430人≫臨時開館している北海道夕張市の「幸福の黄色いハンカチ想い出広場」には20日、430人のファンが追悼に訪れた。前日は210人で、倍増。関係者は「札幌などからいらした方が多く、これから週末にかけて、もっと増えるのでは」と話した。

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