[ 2010年3月15日 06:00 ]

ワーグナー作品上演の聖地、バイロイト祝祭劇場

☆楽劇「神々の黄昏」について 

 台本の執筆開始から26年もの歳月を費やして完成された「ニーベルングの指環」。中でも「神々の黄昏」はその頂点をなす作品だ。元々前3作の台本は構想段階で「ジークフリートの死」と呼んでいた「神々の黄昏」を“補完”するために書かれたものであり、音楽面では最後に作曲されたことでワーグナー円熟期の充実した技法が最大限に盛り込まれているからだ。
 特筆すべきは前述の通り、オーケストラの役割に大きなウエイトが置かれていることだ。前奏曲というような従来型の劇音楽ではなく、重要な場面で声や言葉を入れずにオーケストラだけに演奏させ、さまざまな事象を、ライトモティーフを縦横に組み合わせていくことによって表現している。序幕から第1幕へのジョイントの役目も担っている「ジークフリート ラインへの旅」や第3幕の「ジークフリートの葬送行進曲」などはその好例。 
さらに全体を通して対位法が自在に駆使され、動機を重層的に折り重ねることによって壮大な響きの世界が構築されていく。調性をコントロールし、場面に合わせて音楽の“色”を変化させていくその手腕は他の作曲家の追随を許さぬものがある。音楽が言葉を超えて雄弁に語りかけ、多彩な響きの変幻が観客・聴衆を物語の世界に引き込んでいく。
その極め付けはエンディングだろう。「ブリュンヒルデの自己犠牲」に続く4管編成の大管弦楽が織りなす一大交響詩のような壮大な幕切れは、圧巻の一言に尽きる。当初、ワーグナーは2通りのセリフ(歌詞)入りの結末を検討していたが、結局はセリフを採用せずに音楽にすべてを託したのだ。まさに楽劇の中の楽劇といわれるこの作品の結末にふさわしい終わり方といえよう。総譜(スコア)の最後に「もう何も言うまい」と書き込んだことは有名なエピソードだ。
1874年、「神々の黄昏」を脱稿したことで「ニーベルングの指環」はついに完成、ワーグナーはすぐに初演の準備に取りかかる。これに先立ち彼は、全4作を連続上演する祝祭構想を立案し、ドイツ各地にその候補地を探した。この際、合わせて出演歌手の選考も行っていたという。最終的にバイエルンの田舎町バイロイトを気に入り、ここに新たに専用劇場と自宅を建設することを計画。建設資金は大半をバイエルン国王のルートヴィヒ2世が負担、加えて各地に設立したワーグナー協会からの寄付で賄った。
 そして1876年8月13日、第1回バイロイト音楽祭(祝祭)として「ラインの黄金」から順に初のチクルス上演が挙行され、「神々の黄昏」は8月17日に初演された。指揮は弟子のハンス・リヒター、ワーグナー自身は演出を担当した。第1回祝祭の第1チクルスには、ドイツ皇帝ヴイルヘルム1世、ブラジル皇帝ドン・ペドロ2世ら世界のセレブが参列したが、最大のパトロンであるルートヴィヒ2世はなぜか欠席し結局、第3回目の公演にようやく姿を現したという。
 第1回祝祭についてワーグナー自身はさまざまな不満を感じ、次回での改善に思いを巡らしたのだが、資金難から第2回を開催することがなかなか出来ず、「パルジファル」初演の1882年7月まで待つこととなる。この時は「リング」は上演されなかったため、ワーグナーが生前、「リング」のチクルス上演を直接、取り仕切ったのは第1回のみとなり、彼が自ら抱いた不満をどのように改善し理想に近づけていこうとしていたのかは、現代にまで続く永遠の課題となってしまった。

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2010年3月15日のニュース