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アントニオ猪木さんが明かした「過激なプロレス」の真相

[ 2022年10月1日 13:43 ]

<IGF両国大会「INOKI GENOME」>場外で乱入したアブドーラ・ザ・ブッチャー(右)を鉄拳制裁するアントニオ猪木
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 アントニオ猪木さんをスーパースターにしたのは独特のプロレス観だった。作家の村松友視氏はこれを「過激なプロレス」と命名。猪木さんは生前、スポニチ本紙に自身の考えを明かしていた。

 まずは、ライバルだったジャイアント馬場さんとの大きな違い。猪木さんは「馬場さんとオレのプロレス観は明らかに違っていた。いつだったか忘れたが、馬場さんは『この商売はいいよなあ』と言った。オレは『こんな厳しい職業はない』と思っていたから、その言葉が理解できなかった。プロレスは命を張って戦って、たくさんの観客を楽しませなければいけない」と語った。

 1972年に新日本プロレスを設立。そこで自ら理想とする戦いを目指した。

 「お手本にしたレスラーが3人いる。カール・ゴッチ、ルー・テーズ、力道山だ。ゴッチは職人、真剣勝負の達人、テーズは体の柔らかさと力を持った天性のヒーロー、力道山はたった1発の空手チョップでファンをわかすことのできる魂の持ち主。その三つのキャラクターから『アントニオ猪木』が生まれた」

 特に大事にしたのが、力道山の「魂」の部分。その熱い戦いぶりはやがて「燃える闘魂」のキャッチフレーズを生んだ。

 「プロレスとは『闘い』だ。リング上でただ勝ち負けを決めるという単純な戦いではない。お互いの魂をぶつけ合って命まで削るような闘いが求められるのだ。戦後、力道山がヒーローになった理由は、あのケンカファイトにある。技は多彩じゃないが、あの空手チョップは誰もまねできない。あの1発には怒りがこめられている。怒っているふりじゃなく、本当の怒りだ」

 作家の村松友視氏は著書「私、プロレスの味方です」(1980年)で猪木さんの戦い方を「過激なプロレス」と命名。ジャイアント馬場さんの「プロレス内プロレス」と区別し、「自らの肉体をカタに明らかにハンディの多すぎる道を選んだアントニオ猪木の覚悟を支えているもの、それは闘う男のロマンであるとしか考えられない」と支持した。

 猪木さんは「オレのプロレスは、いかに相手の個性を十分に発揮させるかだ。そのためには相手をこちらの手の内で踊らせなければいけない。それには、絶対的な実力が必要になる。相手の技を受けても大丈夫だという自信も必要だ。プロレスラーはまず強くなくちゃいけない」と説明した。

 重要視していたのは、戦いのテーマや話題性。ファンだけではなく、メディアや世間がいかに関心を抱く試合を行うかに腐心した。

 「いつもプロレスのステータスを考えてきた。ムハマド・アリ戦を実現させたのも、その思いの表れだ。世間に振り向いてもらうためには、風船をふくらませなければならない。風船はふくらましても、間もなく、しぼむから、また息を吹き込まなければいけない。オレの仕事は、しぼんだらふくらます、しぼんだらふくらますの繰り返しだった」

 晩年、米国のプロレス団体「WWE」で日本人として初めて殿堂入りした際、記念式典で、南極でのプロレス開催を提案した。自身が既に現役ではなく、実現することはなかったが、その発想の奇抜さ、スケールの大きさは群を抜いていた。そして、それこそが「過激なプロレス」の根源だった。(総合コンテンツ部専門委員 牧 元一)

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