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【担当記者悼む】常に観客と相対した人 「いつも“アントニオ猪木”でいることに疲れませんか」に…

[ 2022年10月1日 12:38 ]

1994年、新日本プロレス・東京ドーム大会で最後は長州力(左)らと気勢を上げるアントニオ猪木
Photo By スポニチ

 東京・六本木の居酒屋でアントニオ猪木さんと酒を酌み交わしたことがある。十数年前の話だ。

 そこは大衆的な店で、道路から店内が丸見えだった。猪木さんを見つけた通行人は驚き、中には「猪木!」と叫んだり、猪木さんの得意の「ダー!」のポーズをやって見せたりする人がいた。仕事から離れた私的な席だから、普通ならば無視しても良い場面だ。ところが、猪木さんは笑顔を返したり、手を上げ返したり、最初から最後まで対応を続けた。

 これでは気が休まる時がないだろう。私は「いつも『アントニオ猪木』でいることに疲れませんか?」と尋ねてみた。すると、猪木さんは不思議なことを質問されたかのような表情で「全然それはない。それで生きて来たから。どこへ行っても、ワーッと人が集まるけれど、周りの人たちの方が気を使ってくれるよ」と答えた。この人はやはり根っからのスターなのだと思った。そもそも、他人に見られることが嫌ならば、大衆店での飲食を選ばない。猪木さんは他人に見られるのを当たり前のこととして生きて来た人なのだ。

 初めて取材したのは、1989年、参院選に出馬した時だった。当時、六本木にあった新日本プロレスの事務所のエレベーター内で初対面した。私が「これからずっと追いかけさせていたてだきます」とあいさつすると、猪木さんは「追いかけなくてもいいですよ」と素っ気なく答えたが、その後、取材を申し込むと、必ず応じてくれた。ファンと同様にメディアの人間を大切にする人だった。メディアこそが自分の人気を支えているのだと信じていたに違いない。

 1993年に週刊誌が猪木さんの金銭がらみのスキャンダルを報じたことがあった。この問題はスポニチ本紙でも取り上げた。自分にとって極めてマイナスの情報を後追い報道したのだから、猪木さんは怒った。あれだけ取材に協力して来たのに手のひらを返されたと憤慨するのは自然な感情だ。ただ、謝る話ではないので、放っておいた。これで私が猪木さんを取材する機会は二度と訪れないだろうと覚悟した。

 それから10年くらい経て、偶然、猪木さんに会った。どうなることかと戦々恐々としたが、全く以前と同じ雰囲気だった。猪木さんは淡々と「元気ですか?」と得意のフレーズを口にした。私が「おかげさまで元気でやっています」と答えると、柔らかい笑みが返ってきた。10年前の報道を忘れているわけがない。だが、終わったことはもういいじゃないか、お互いに前に進める話をしよう。そんな感じだった。猪木さんの懐の深さを実感し、その日からまた取材する機会が生まれた。

 政治の話だけでなくプロレスの話もたくさん聞いた。ボクシング世界ヘビー級王者のムハマド・アリさんとの世紀の一戦、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンらライバルたちとの名勝負…。貴重な話の数々だが、不思議に今でも深く心に残っているのは、観客に関する話だ。

 「プロレスはほかのスポーツとは違う。何秒で走れる。何メートル飛べるというのを競う競技じゃない。対戦相手と同時に観客とも勝っている。リング上で、ちょっとタイミングがずれただけで観客が乗ってこなくなる。例えば『猪木コール』を招くためにオレがパーンと手をたたく。このタイミングが重要だ。他の選手を見ると、ワンテンポ遅れていることがある。ゼロコンマ何秒の差かもしれな。それは計算してできるわけじゃなく、感性の問題だ」

 こんな話も聞いた。

 「良い試合か、悪い試合かは、直接見なくても、控室にいて観客の歓声を聞いているだけで分かる。観客が本当に手に汗を握っているか、退屈しているか、すべて歓声に表れる。これは力道山の付き人時代に自然に学んだことだ」

 猪木さんは常に観客のことを考えていた。「アントニオ猪木」は観客に相対することで成り立っていた。メディアで働く私も、猪木さんにとって、小うるさい観客の1人だったと思う。(総合コンテンツ部専門委員・牧 元一)

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