阪神育成1位・野口 毎日続けた重いマスコットバットでの素振りが打者としての才能を開花させた

[ 2022年12月10日 05:15 ]

阪神新人連載「七人のトラ侍」  育成1位、九産大・野口

小学6年の時、ソフトボールで投手を務めた野口(提供写真)
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 野口は物心がついたときから世界最高峰の舞台に夢中だった。幼い頃は父・峰誠(ほうせい)さんと一緒にメジャーリーグをテレビ観戦することが日課。イチロー、松井秀喜のファンだった父の影響を受け、自然と野球に興味を抱くようになっていた。

 3歳の頃には野口家である事件が続出した。当時、球体のものを見つけると、すぐに投げてしまう癖があった。道で石を見つけると、投げて車にぶつけたり、自宅近くの千々石(ちぢわ)町内で農家を営む祖父・晴昌(はるまさ)さんが作ったじゃがいもを畑で投げては祖父の頭に直撃。活発すぎる少年は、その頃から“才能”を発揮していた。

 「野球をやりたい」

 小学1年になると野球への関心が、さらに増した。ただ、自宅近くに野球チームはなく、仕方なく父も小学生時代に在籍していた千々石アドバンスでソフトボールを始めた。小学6年まで投手として活躍。高学年になるとプロ野球選手を志すようになった。小学校の卒業式では「イチローみたいに有名になります!」と誓いの言葉を述べたほどだった。

 野球ボールを握ったのは中学校に進学してからだった。千々石中学校では悲願の軟式野球部に入部。当時は部員が7人ほどしかおらず、大会のたびに柔道部やサッカー部員が助っ人として参加する状況だった。この環境が良かった。チーム編成上、捕手、三塁、投手など複数ポジションを経験。中学3年時には長崎県内の3校の高校からスカウトされるまでに成長した。しかし厳しい道を選んだ。

 「凄い選手たちと競って、レギュラーを勝ち取りたい」

 県内の強豪校・創成館の練習を一日体験したことで入学への気持ちが傾いた。だが、事前に創成館からの誘いはなく、入学には一般入試しか方法がなかった。「一般でもいいから創成館で野球がやりたい」。受験の3カ月ほど前から学習塾に週2~3回通うなど懸命に机に向かった。

 その努力が実を結び一般入試で合格も、1学年約40人の部員の中で一般入試で入部したのはわずか5人。推薦入学組の中には中学日本代表の川原陸(阪神)をはじめ、広島カープジュニア出身者や過去に日本代表の経験を持つ猛者たちがいた。

 ただ、高校入学後は打者としての才能が開花した。父の勧めで中学3年の頃から続けていた1・1キロのマスコットバットによる毎日の素振りが奏功。「重いバットでフルスイングしろとお父さんにも言われ続けてきた。それがあったから、力強く振れるようになった」。2年秋に外野のレギュラーをつかむと、3年春の選抜では3試合で10打数7安打と大暴れし、チームのベスト8進出に貢献した。

 3年夏の甲子園では1回戦で創志学園(岡山)に敗れて高校生活は幕を閉じた。九産大進学後は「プロを目指すには1年から出る」と目標を立てた。見事に1年春からベンチ入りして有言実行。福岡六大学リーグ通算では打率・314、3本塁打。プロでは育成からのスタートにも「活躍して親にも恩返しがしたい」と誓う。野球の世界に導いてくれた両親への恩返しを胸に九州の“雑草魂”はプロの世界ではい上がる。 (長谷川 凡記)=終わり=

 ◇野口 恭佑(のぐち・きょうすけ)2000年(平12)7月17日生まれ、長崎県雲仙市出身の22歳。千々石第一小1年からソフトボールを始め、千々石中では軟式で捕手。創成館では1年秋から外野手でベンチ入りし、3年春夏の甲子園出場。九産大では1年春からベンチ入りし、4年春にベストナイン。1メートル80、88キロ。右投げ右打ち。

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