【高校野球 名将の言葉(7)明徳義塾・馬淵史郎監督】浜風に負けた2回戦「山にでもこもらないと…」

[ 2022年8月11日 09:00 ]

明徳義塾・馬淵史郎監督
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 高校野球界における名物監督の一人、明徳義塾・馬淵史郎監督の周りには自然と記者が集まる。独特のだみ声で今回はどんな言葉を発するのか――。「馬淵節」がある意味、楽しみの一つとなっている。

 そんな馬淵監督が試合後に相当に落ち込んだ様子を見せたのが2001年の選手権大会だった。エースが2年生の田辺佑介で、中軸を打つ森岡良介、筧裕次郎も2年生。脇を3年生が固める力のあるチームで1回戦・十日町戦は田辺が14奪三振で無四球完封。森岡が3安打4打点するなど10―0の快勝発進で、馬淵監督も「今年のチームは今までより上に行きますよ」と相当な自信をうかがわせた。

 迎えた5日後の2回戦・習志野戦。4回2死一塁から田辺が先制2ランを浴びた。普段よりも強いライトからレフト方向に吹く浜風に運ばれるアンラッキーな一発が最後まで響き1―2でまさかの敗戦を喫した。

 「普段の行いは悪くないんだが…。山にでもこもらないとダメかな」

 周囲の笑いを誘ったが、全ての取材が終わると、しゃがみ込み「このチームでも勝てんか」と本音が漏れた。

 社会人野球の阿部企業で監督を務め日本選手権で準優勝も経験した勝負師。92年夏の星稜戦で「松井君は別格。私が知る限りではNo・1。勝つための手段として勝負を避けた」と松井秀喜に対する5連続敬遠で一気に全国区となった。だが、その後は98年夏の準決勝・横浜戦で6点差を大逆転されるなど“悲運”がついて回っていた。

 翌年夏。最上級生となった森岡、田辺、筧を中心としたチームは強さを増し、初めて進んだ決勝戦で智弁和歌山に快勝し悲願の初優勝を飾った。「松井の5敬遠」から区切りの10年。「何とも言えない。選手一人一人に感謝です」。馬淵節を繰り出すこともなく涙をぬぐったことが、喜びの大きさを物語っていた。

 ◇馬淵 史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日生まれ、愛媛県出身の66歳。三瓶、拓大では内野手。83年から社会人野球の阿部企業監督を務め86年の日本選手権で準優勝。87年から年明徳義塾でコーチとなり90年8月に監督就任。02年夏の甲子園で初優勝。甲子園通算54勝(8月10日現在)。

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