【内田雅也の追球】閑古鳥の甲子園に大観衆を呼んだカクテル光線 コロナ禍のナイター記念日に思う

[ 2021年5月13日 08:00 ]

セ・リーグ   阪神ー中日(ノーゲーム) ( 2021年5月12日    甲子園 )

1956年5月12日、初のナイター開催で超満員となった甲子園球場=阪神球団発行『阪神タイガース昭和のあゆみ』から=

 その日の模様をスポニチ本紙(大阪本社発行版)は<先ごろ多年の念願かなって完成をみた甲子園球場の初ナイターが一層の人気をよんで、観衆は早くからどっとつめかけた>と伝えている。

 1956(昭和31)年5月12日、甲子園で初めてのナイター、阪神―巨人戦が行われた。

 午後6時30分から阪神オーナー(電鉄本社社長)・野田誠三がダイヤモンド中央に設置されたボタンを押す「点灯式」が行われた。<夜空に水銀柱で青く浮かび上がったマンモス球場は大観衆のどよめきとともに一大壮観を呈していた>。

 名物グラウンドキーパーだった藤本治一郎は<わたしたちの年代の者はみな、天と地がひっくり返ったほどの驚きだった>と著書『甲子園球児一勝の“土”』(講談社)に記している。

 試合は1―1同点の7回表から先発・渡辺省三を救援した小山正明が3回を無安打零封。8回裏には2点打を放つ投打にわたる活躍で、阪神が4―1で巨人に快勝した。

 12日は、そんな甲子園初ナイターの日だった。65年前の話である。

 観衆発表は実に7万。阪神球団発行『阪神タイガース 昭和のあゆみ』には<ナイター開きの当日は、予想どおり内外野のスタンドが観衆で埋めつくされた>とある。

 <予想どおり>とは当時、阪神がナイター開催にかけた期待がうかがえる。何しろ、それまで甲子園には客が入らず、閑古鳥が鳴いていた。今では考えられないことだが、事実である。

 前年55年、阪神の観客動員数は59万9061人(65試合)、1試合平均9090人と1万人に満たなかった。ただ、この数字は甲子園だけでなく神戸市民や西京極、さらにナイター設備のある大阪球場を借りてのもの。甲子園(23試合)に限れば、1試合平均わずか6043人だった。大阪球場(29試合)は1万0260人と上回っていた。

 夜間照明の不備が甲子園の不入りの原因だと指摘されていた。平日昼間ではファンも出向きづらい。

 後楽園球場は50年に、大阪球場は51年にナイター設備を整えていた。大阪・難波の駅前にあった大阪球場を本拠地としていた南海(現ソフトバンク)の球団史『南海ホークス四十年史』は当時の模様を<なんとしても地の利があり、パ・リーグの試合だけではなく、阪神―巨人、松竹―巨人といったカードも組まれていたので、東の後楽園に対し西の大阪球場がプロ野球のメッカになった>と記している。

 巨人と「伝統の一戦」を戦う阪神として、甲子園のナイター化は本紙記事にあったように<多年の念願>だったのだ。

 ナイター開きとなったこの56年、阪神の観客動員数は89万2364人(1試合平均1万3728人)と、51%の大幅増となった。

 11日、甲子園で行われた阪神―中日戦はプロ野球初の大台、2000試合目だった。当欄で<長い年月、風雪に耐えてきたのだ。偉大な先人たちに思う、輝ける2000試合である>と書いた。風雪のなかには、こうした不入りもある。

 新型コロナウイルスのまん延防止で緊急事態宣言の下、この日から甲子園は再び観客を入れる予定だった。ただし5000人までという制限はある。

 つまり、いま目の前にある観衆数千人程度の試合は、かつての阪神の姿なのだ。先人の苦労を思う。先の見えぬ疫病禍である。それでもいつか、甲子園球場に満員観衆が詰めかける日は戻ってくる。カクテル光線のように光輝く明日を願った。=敬称略=(編集委員)

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