トミー・ラソーダ氏が遺したもの 選手を引き寄せた無形の財産とは?

[ 2021年1月9日 09:21 ]

ドジャースタジアムのベンチに掲げられたラソーダ氏のユニフォーム(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】私は大学生になるまで大リーグの監督といえば2人しか知らなかった。1人は何度もオーナーと衝突して解雇と再雇用を繰り返したヤンキースのビリー・マーティン氏(1989年に61歳で死去)。そしてもう1人が、8日午後10時57分に93歳で帰らぬ人となったドジャースのトミー・ラソーダ氏だった。1995年、野茂英雄氏のドジャース入団に伴ってスポーツ紙に大リーグの情報があふれるようになってから、私の心の中ではその存在感はさらに大きくなった。

 おそらく我々がラソーダ氏に抱いているイメージは誰にでも笑顔を見せていた陽気な人柄かもしれない。しかし亡くなったあとに自分で調べ、そして彼を知る人たちの話を聞いていると、少し違った印象を抱いてしまった。

 そもそも私たちは現役時代の“ラソーダ投手”を知らない。出身は西海岸のロサンゼルスではなく、東部ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のノリスタウン。地元の高校を出て1945年にドラフト外で契約したのはそのフィラデルフィアを本拠にしていたフィリーズだった。

 178センチとラソーダ投手はサイズには恵まれていなかったが、マイナーの試合では1試合で25奪三振(15イニング)を記録。その後も1試合で15&13奪三振と快投を続けていた期待の星だった。しかし1945年の秋から47年の春まで兵役(陸軍)に就き、現役選手としてのピークにさしかかった時期に野球を離れることになった。第二次大戦は終わっていたが米国はその後朝鮮戦争に足を踏み入れることになり、ラソーダ氏の兵役期間はその間に漂っていた不安定な時期だった。

 1949年に今度はドラフトで指名される形でドジャースに入団。1954年8月5日にメジャー昇格を果たしたが翌年には同じ左腕でのちにドジャースの大エースとなるサンディー・コーファックスが入団し、投手陣の層が厚かったこともあってラソーダ投手の“居場所”はなくなっていった。

 メジャー3シーズンで通算0勝4敗。投手としての成績はまったく目立たない。ではなぜ彼がドジャースの監督として21シーズンも在籍し、そして71シーズンの長期にわたって何らかの形で球団を支え続けることができたのか?

 それが人柄ではなく“頭脳”であったことが、愛弟子の1人であり(ドジャースに1969年から3年在籍)、元千葉ロッテの監督でもあったボビー・バレンタイン氏(70)の追悼コメントでわかった。

 「彼(ラソーダ氏)は自分に関わっているすべての人の名前を覚えていた。それだけじゃない。すべての投球、すべてのプレー、すべてのストーリーを覚えていた」

 現在、大リーグの試合ではベンチでコーチたちがタブレットを利用して、打者に相手投手の情報を教えている。その場面をテレビで見た方も多いことだろう。しかしラソーダ監督は彼自身の頭脳がそのタブレットだったのだ。

 「すべてのプレーを覚えている」という点で、私が取材した中で最も驚かされたのはプロゴルファーの青木功氏(78)だった。何年前のどんな大会の何番ホールの残り何ヤードの何打目をどんなクラブで打ってグリーンのどこに乗せたのかという話は、ゴルフ経験のないままに担当記者を務めていた私にはときとして理解不能のコメントだった。しかし会社に帰って資料で調べてみると(インターネットなどない時代です)、その通りだったことがわかりしばらくぼう然としていた思い出がある。

 確かにメジャーの投手枠はコーファックスに奪われた。しかし彼の頭脳はスポーツ界にとって最も価値のある能力で満ち溢れていた。これはゴルフや野球だけの話にはとどまらない。80年代後半、アメリカン・フットボールの大学のある強豪校の監督を取材したとき、私はその指揮官のプロフィールを見て首をかしげたことがある。当時すでに名将として有名な監督だったにもかかわらず、彼には現役選手としての経験がなかったのだ。

 しかし大学のスタッフがこんなことを話してくれた。「彼はすべての作戦を紙の上で組み立てられるんです。対戦相手の情報はすべて頭の中に入っていますし、それを試合ごとに引き出して文字と図形で表現します。しかもすべて的確なんです。だからチームの指揮を執れるんです」

 スポーツ界の指導者の中には、ときとして形の見えにくい“天才”がいる。もちろんチームを勝利に導くには人柄も大切だが、その一方で確かな理論と情報に基づいていなければ選手はついてこない。ラソーダ氏はたぶんその1人だった思う。

 「もし君がドジャースを好きになれないなら天国に行くチャンスを逃してしまうよ」。「自分が死んだら墓石にドジャースの日程を彫ってほしいと妻に言ってある」。「ドジャースの試合日程を知りたいなら“ラソーダの墓に行こう”ってことになるからね」。AP通信のコラムニスト、ティム・ドールバーグ氏が紹介してくれたジョークは印象的だった。

 通算11599勝1439敗。かねてから「望むことは2つだけ。100歳まで生きること。そしてもう一度チームがワールドシリーズで優勝するのを見ること」と語っていたが、前者の願いは成就しなかったとは言え、後者は昨季に後輩たちが成し遂げてくれた。遺したものは有形と無形を併せてどれほど多かったか…。スポーツ界にとって“財産”だった名将が、多くの人の思い出に囲まれて旅立っていった。

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には7年連続で出場。還暦だった2018年の東京マラソンは4時間39分で完走。

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