セ・リーグ会長にメジャー挑戦を直談判! 阪神球団初のセーブ王が夢見た渡米計画の舞台裏初告白

[ 2021年1月9日 12:30 ]

猛虎の血―タテジマ戦士のその後―(2)山本和行さん

84年2月、マウイキャンプで臨時コーチを務めたドジャースのロン・ペラノスキー氏の前でピッチングを披露する山本和行

 引退した藤川球児(40=阪神スペシャルアシスタント)につながる猛虎のストッパーの系譜は、ここにさかのぼる。阪神で初めて最優秀救援投手を獲得したのが82年の山本和行(71)だ。85年も左アキレス腱断裂に見舞われながら、リーグ優勝に貢献。引退後は野球解説者、広島コーチなどで活動するとともに、ゴルフの底辺拡大に取り組んできた山本が、84年メジャー移籍志願の舞台裏を初めて語った。

 この男の行動がなかったら、日本人のメジャー挑戦の歴史も変わっていたかもしれない。幻となった山本のメジャー挑戦。行動を起こしたのは84年オフ。阪神が日本一になる前年だった。

 「ここがラストチャンスだと思っていた。36歳だったし、挑戦するなら今しかないと思っていたんだ」

 当時行われていたマウイキャンプで、ハワイ駐在のドジャースのスカウトから「君のフォークは通用する」と評価を受けた。その気になった。住居や通訳もすべて手配した上で、球団に「メジャーでのプレーを認めてほしい」と申し入れた。阪神はこれを拒否。身勝手な行動と指摘もされた。「当時は突拍子もない話だった。契約にがんじがらめでどうしようもなかった」と振り返るが、最後まで行動を続けた。

 セ・リーグの川島広守会長に極秘接触。直談判していたことを山本は明らかにした。「今回は無理だが、将来的にはそういうことも考えていかないといけないだろう。システムは作っていきたい」と会長は訴えに耳を傾けた。FAもまだない時代に球界上層部に一石を投じた。決して自分本位の行動ではなかった。

 リリース直前で握りを変え、直球と同じフォームで投げ分けるフォークを武器に、82、84年に最優秀救援投手に輝いた阪神の初代守護神だ。85年も中西清起とのダブルストッパーでリーグ優勝に貢献した。9月にアキレス腱を断裂し、私服でビール掛けに参加した。「85年のチームは選手がそろっていた。バースからは自分のクセやパターンなど相手の外国人選手がどう見ていたか、いろいろ教えてもらったよ」

 88年に現役を引退。指導者としては92年から4年間、山本浩二、三村敏之両監督の下、広島で投手コーチを務めた。それ以外はNHKなどで野球解説者として活動。だが、第二の人生の軸はゴルフに置いた。米国でシニアのテストにも挑戦。「ゴルフを通じた人間関係がはるかに広い」とインストラクタープロゴルフ協会の関西支部長なども務めていた。

 解説者を卒業してからは阪神戦を見ることもなくなった。「興味がない」と言いながら、阪神OBのプライドは持っている。「巨人や阪神のOBは、子供たちに夢を与える立場。その看板は裏切れない。悪いことはできないからね」。実は大阪や京都で10年以上、子供たちへの野球教室を続けていた。「社会は思ったより厳しい。その中でいい人にめぐり合うことが、いい人生になるんだ」がセカンドキャリアの信念だった。 =敬称略= (鈴木 光)

 ◆山本 和行(やまもと・かずゆき)1949年(昭24)6月30日生まれ。広島県出身の71歳。広島商―亜大―阪神(71年ドラフト1位)。左の守護神として85年の日本一に貢献。プロ通算116勝106敗130S。82、84年に最優秀救援投手。92年から95年まで広島投手コーチ。1メートル74、80キロ。左投げ左打ち。

 ※今企画は、YouTubeの「スポニチチャンネル」と連動。インタビュー動画も配信しています。併せてお楽しみください。

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