【内田雅也が行く 猛虎の地】猛虎たちも関わった女子野球の青春 審査員、文通、ぜんざい…で親しんだ日々

[ 2020年12月20日 11:00 ]

(19)今里

大阪ダイヤモンドと喜劇映画チームの記念写真(1951年、大阪球場)=高坂峰子さん提供=。前列中央に映画監督・斎藤寅次郎、後列から2人目が球団オーナーの山田繁氏。伴淳三郎、田端義夫、清川虹子、柳家金語楼らの姿が見える。

 グラウンドにトレンチコートを着た背の高い男性が立っていた。高坂(当時加藤)峰子さん(87)は「あの方が審査員かな?」と思ったら、その通りだった。私服だが、どこかプロ野球選手の風情が漂っていた。

 1950(昭和25)年4月29日、大阪・今里の神路小学校で行われた関西初の女子プロ野球チーム、大阪ダイヤモンドの入団テストである。

 審査員は阪神の投手・駒田桂二だった。1メートル80と当時では頭一つ抜けた長身の右腕。24歳だった。社会人・東洋紡績(現東洋紡)から前年シーズン中、当時監督の若林忠志に見いだされて入団。3日後の5月2日、刈谷での広島戦でプロ初勝利を完投で飾っている。

 カーブが得意で51年には自己最多の11勝。54年には33回2/3連続無失点(球団歴代6位)を記録している。雑誌『ベースボールニュース』に<青春多感の20歳ごろ書いた>という小説『球は知らず』が掲載されるなど、文才もあったようだ。

 チームはその日、甲子園で松竹戦だった。なぜ駒田が審査員を務めたのかは不明だが、大阪ダイヤモンドの本拠地・今里に近い布施市(現東大阪市)荒川の実家に住んでいたからではないか。

 高坂さんは都島工高普通科の2年生。16歳だった。放出中2年の時、ソフトボール部ができ、野球のとりこになった。高校に進み、先生に頼んでソフトボール部をつくってもらった。母親から「峰ちゃん、受けてみたら」と女子プロ野球メンバー募集の広告を手渡され、挑戦したのだった。

 約400人が受験し、遠投、フリー打撃、50メートル走などをこなした。後にガリ版印刷で受験番号「二四九」が記された合格通知のはがきが届いた。プロになると決め、高校は中退して入団した。

 20歳前後の女性20人が集まった。戦後、今里で暮らし、地元にあった女子プロ野球を取材したイラストレーターの成瀬國晴さん(84)は大阪ダイヤモンドの「女子職業野球団大阪」の事務所が置かれていた山田産業を覚えている。ワイヤロープや工作機械を扱う会社だった。社長の山田繁さんが球団オーナー、スポンサーで選手たちは「団長さん」と呼んだ。

 奈良・春日野球場で合宿し、主に今里公園で練習した。高坂さんは城東区諏訪の自宅から30分かけて歩いた。朝から夕方まで練習した。「帰り道、周りは田んぼや畑ばかり。大阪城を見れば、夕日に赤く染まり輝いていました。きれいで、疲れも吹っ飛びました」

 披露試合は6月4日、甲子園球場での「東映祭り」だった。掘り下げ式の一塁側タグアウトに入った高坂さんは「マウンドに隠れてショートが見えなかった」と驚いた。相手は東横俳優陣で5―3で勝った。本紙に記事があり、試合後は新作映画のPRや次作映画の野外ロケも行われた。

 その後は男性アマチュアチームと対戦。後に関西に女子プロができ、帯同で名古屋、山陽山陰、和歌山などに遠征した。芸能人、喜劇人や俳優との対戦も多かった。

 プロを名乗ったが選手は無給だった。選手の引き抜きが増えた。高坂さんは大阪ダイヤモンドから大阪スターズ、大阪シスターズ(後に大阪日日シスターズ)と移った。

 女子選手はアイドル的な人気があった。男性や少年少女からファンレターが届いた。パンフレットに「かわいらしい事では球団一で通っております」と紹介された。

 阪神が甲子園で練習する横で練習したこともある。球場内の風呂にも入れてもらった。50年に新設された2軍制度で17人の新人を採用していた。

 冷水(しみず)美夫はその1人。48年夏の甲子園大会で準優勝した桐蔭(和歌山)の4番(当時は竹中姓)だった。休憩時間に話をして知り合った高坂さんは手紙をやりとりした。冷水は「プロの道を歩む者同士、お互い頑張りましょう」と励ましてくれた。退団前、冷水が選手のサインを集めた帳面を「取りにきて下さい」と書いた手紙が最後だった。今回、消息をたどると8年前、宇都宮で亡くなっていた。

 阪神との交流は続き、梶岡忠義にぜんざいをごちそうになった。藤村隆男から中古グラブをもらった。東京遠征の帰り、特急つばめで同じ車両(三等車)になったこともある。車掌に頼んで一等展望車を見せてもらうと、大スターの藤村富美男が1人寝ていた。

 女子プロ野球はスポンサーの撤退などで2年でアマチュアとなった。高坂さんは百貨店で野球を続け、結婚を機に引退。夫が始めた法善寺横丁の老舗喫茶店「アラビヤコーヒー」を手伝った。

 05年、当時の選手が集まって大阪シルバースターズとして活動を再開。高齢化とコロナ禍で今年は活動できていない。「もう戻れはしないけど、あのころに帰りたい」

 そんな折、今月、阪神が女子野球チーム、タイガースWomen(ウィメン)を発足させた。

 「時代も変わりましたね。タイガースが母体なら安心。女だてらにと呼ばれた私たちとは違い、思い切り野球ができる。やる限りは中途半端じゃなくやり通してほしい」
 60年以上の時を経て、女子選手と阪神の交流である。 =敬称略=
  (編集委員)

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