【藤川球児物語(37)】チーム低迷も夢を追いメジャー挑戦表明

[ 2020年12月20日 10:00 ]

代理人の団野村氏(奥)とともにメジャー球団視察から帰国した藤川

 東日本大震災が起こった11年のシーズン、阪神は68勝70敗6分けで4位に終わった。オフには真弓明信から和田豊に監督が交代。和田は野手キャプテンに鳥谷敬、投手キャプテンに藤川球児を指名した。

 「真弓さんがまいた種がある。それを和田監督が育てていこうとしている。いろんな方向から足元を揺さぶられる球団だから、精神的にも強くなって、しっかりとまとまっていきたい」

 チームを変えたい。若手を成長させたい。思いは常に持ってきた。12年の鳴尾浜自主トレ初日には「投手の更衣室が汚い。残念。見られている意識が足りない」と苦言を呈した。同時にプロの壁、故障の苦しさを誰よりも経験したからこそのアドバイスを鶴直人、白仁田寛和ら若手に送った。

 一方では、これまでと違う面々が藤川の動きをマークしはじめた。メジャーのスカウトがキャンプ、オープン戦、そして公式戦と姿を見せることが増えた。12年4月10日に海外FA権を取得した。メジャーでのプレーに思いを持つ日本を代表するストッパーについてのリポートは、登板のたびに海を越えていった。

 その翌日の広島戦(マツダ)では3者連続三振で200セーブを達成。史上初めて防御率1点台での大台到達。ホールドもこの時点で100。合わせて300回、チームに貢献した。セーブ記録よりも、300という数字に藤川は胸を張っていた。

 10月9日、ともにチームのために戦ってきた鉄人・金本知憲の引退試合が甲子園で行われた。「金本さんが来られて、チームは劇的に変わった。僕たちがもっと楽にプレーできるようにしないといけなかった」。チームは2年連続Bクラス。夢を追うか、現実の中で頑張るか。藤川の苦悩は続いた。

 最後は一人で決めた。07年の契約更改からずっと訴えてきた野球人としての夢。11月8日、阪神は藤川のコメントを発表した。「今年に入ってからはすべての可能性を考え、熟考を重ねた末、やはり長年の目標に挑戦したいという気持ちは強く、考えが変わることはありませんでした」――。 =敬称略=

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