【内田雅也が書く 野球ができる喜び――コロナ禍の戦後75年(下)】「命のボール」を守った小島善平氏

[ 2020年8月14日 07:00 ]

湊川公園にて。小島善平氏と小学生の長男・昭男氏(1939年ごろ)=小島惠江さん提供=
Photo By 提供写真

 草創期から戦中・戦後にかけてプロ野球を陰で支え続けた功労者として日本野球連盟(今の日本野球機構)関西支局長、小島善平氏(1903―57年)を忘れてはいけない。選手の応召・出征が相次ぎ、物資窮乏のなか「命のボール」を守り、戦後復活を告げる45年11月の東西対抗戦開催を実現させた。終戦から75年を迎える、あす15日を前に、その功績をたどってみた。

 小島善平は玄界灘に浮かぶ対馬で玉音放送を聴いた。プロ野球創設時から日本野球連盟関西支局長を務め、41歳にして2度目の召集を受け、通信兵として配属されていた。

 『召集令日記』と題した小さな手帳の1945(昭和20)年8月15日に<正午、ラジオは全面戦争中止を発表する。青天のへきれき(中略)ついに日本敗れたり>とある。

 <ああ、この上は復興へ終生を捧げるのみ。福岡、御船、鈴木へ通信を16日出す>

 神戸の自宅は空襲で焼けていた。福岡は長男・昭男(当時17歳)、御船は熊本県上益城郡御船町で妻・栄子(同35歳)と長女・惠江(のぶえ=同14歳)の疎開先。鈴木とは日本野球連盟会長・鈴木龍二だ。手帳には<家族ノ上ニ想ヒヲハセル>そして<野球再興ノ絶好ノチャンスガ来テイル>と記した。44年限りで休止していたプロ野球再開への思いだ。

 別の『部隊ノート』に9月の長雨を憂い、<晴れを待つ 同じ心は除隊待つ>、ダンチョネ節に乗せ<除隊>を盛り込んだ歌詞を書いた。待ち焦がれた召集解除・除隊は9月30日。小島は熊本・御船町に向かい、家族4人の再会を果たした。89歳になった惠江は「家族がそろい喜んだのは覚えています。しばらくして父は出かけていきました」と話す。

 小島はプロ野球再興の使命感に駆られていた。博多に行き、訪ねたのは西日本新聞社運動部長・高山三夫だった。戦前、九州での公式戦開催を模索した当時から交友があった。

 今のNHK連続テレビ小説(朝ドラ)『エール』で、早大応援歌『紺碧の空』の作曲を若き古関裕而に依頼する逸話がある。依頼主の早大応援団長のモデルが高山である。

 小島は高山に早期野球復活を訴えた。相談を受けた高山は進駐軍と掛け合い、陸軍席田飛行場(接収後は板付基地、今の福岡空港)から軍用機で大阪に戻ったのだった。長男・昭男(2016年他界)によると、小島は「二等兵の軍服のまま、基地に飛び込み”日本プロ野球復興の任務がある“と将校に訴えた」という。時期は不明だが10月上旬とみられる。10月22日、在阪4球団首脳が大阪・梅田の阪急ビルに集まり、復活を話し合った。

 プロ野球は11月に復活を告げる東西対抗戦開催を計画していた。小島は選手集めに動いた。阪神の藤村富美男は終戦後、呉の実家に帰り、進駐軍の雑役で人間魚雷「回天」の解体作業を行っていた。小島から「スグカエレ」の電報に「また野球がやれる」と喜びで体が震えたという。

 小島を<忘れてはならない人物>と『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社)でたたえている。試合をやろうにも<東京には何もない>。小島は出征前、ボールやバットなど野球用具を連盟関西支局事務所があった西宮球場の倉庫に隠して保管していた。また朝日軍代表の橋本三郎が運営する奈良・御所の軍需工場にもあった。<ボール4ダース、バット8本、グラブ5個、ミット1個。これで全部であった>。

 戦後、小島が残したメモには<命のボール>とあった。

 大阪鉄道局に顔が利いた小島が調べると神戸―東京間は闇列車が2本出ていた。東京から来た鈴木と、小島の部下で元神戸銀行員の嘉治井安兵衛が乗り込み運んだ。<心を打たれたのは嘉治井君が一晩中一睡もしないで盗難から守ってくれたことであった>。

 プロ野球復活ののろしとなる戦後初試合、東西対抗は11月23日、神宮球場(接収中で名称はステートサイドパーク)で行われた。

 小島が<命>と記した背景には戦時中、野球排撃が強まっていた情勢や、物資窮乏でボール不足が深刻化していた事情がある。

 40(昭和15)年7~8月、紀元二千六百年奉祝で初の満州遠征を行った際、再三、ボール不足で運送の要請を受けた。各球場からボールをかき集め、税関との折衝など<目がまわるような忙しさ>と日記に記している。

 だが、そのボールも反発力のない粗悪品が多かった。帰国後、野球記者・大和球士は都新聞に<打てども飛ばず、撲(なぐ)れども転がらずという劣悪品ボール>と指摘した。連盟は時局に応じ「野球用具代用委員会」を設置した。ボール内部の糸にスフ(木綿の代用品)が混じっていると言われだした。

 翌41年3月10日付の日記に小島は<ボール難いよいよ襲来>と書き留めた。ボールの質は一段と劣化し、貧打戦、延長戦、完封が激増した。小島は年度別の日記末尾に関西で開催した試合の精算表を付けている。入場者、収入、税額……などに加え、使用球の個数を記すようになった。

 小島の野球への情熱は衰えなかった。41年7月、中等野球(今の高校野球)夏の甲子園大会が予選途中で自然消滅し、プロ野球は創設以来初めて8月中旬に甲子園での開催が認められた。外野席無料、内野席一律50銭の大奉仕で8月17日には観衆2万1453人。有料入場者だけの数字で、外野席も入れれば数万の大観衆を呼んだ。

 日米開戦後の42年8月2日の日記は<2万人の大入り。感謝の他なし。健闘健闘また健闘。最後の頑張りだ>と筆が躍った。

 応召が相次ぎ、選手不足が顕著となった44年夏季が戦前最後の公式戦となった。6球団を3球団に再編し9月に「総進軍大会」を開いて別れた。11月、連盟は休止を宣言した。

 それでも小島は<日本野球の使命を遂行し野球道を守り抜く決意>と関西4球団だけで12月にかけて「関西対抗戦」を18試合決行した。45年元日から1月5日まで「関西正月大会」も開催している。まさに執念だった。

 小島は57年12月12日、急性肺炎のため、54歳で永眠した。藤本定義(後の阪神監督)が弔詞で<東西対抗試合が西宮で行われた昭和21年11月のさる日、あふれるばかりのスタンドを埋めた四万数千の大観衆を見て小島さんは手放しに泣いた。私の一生を通じて忘れえない印象でありましょう>と述べた。

 神戸大空襲で焼け出された際、父の写真や手紙、日記を「かけがえのない物」としてリュックサックで運び出した長女・惠江さんは「野球が私の血肉となっている」と話す。父を思い、コロナ禍のなか、球場に少しでも観客が戻ってきたことを喜んだ。=敬称略=(編集委員)

 《花形弁士としても活躍》小島善平は1903(明治36)年11月、福岡に生まれ、大阪、神戸で育った。明星商(現明星高)卒業後、パン屋を開業。その後、無声映画の活弁士を目指し「小島昌一郎」の名で神戸・松竹座でデビュー。花形弁士となった。野球好きで映画仲間でチームも作った。当時の交流仲間に巨人初代総監督・市岡忠男がいた。トーキー(発声映画)の出現で活弁士は衰退。市岡の勧誘もあり、日本職業野球連盟創設時から関西支局長に就いた。

 ◆日本野球連盟 今のプロ野球・日本野球機構(NPB)の前身。1936(昭和11)年2月5日、巨人、タイガース、阪急軍(現オリックス)、名古屋軍(現中日)など7球団で日本職業野球連盟(NPBL)として設立。東京・銀座に本部、西宮球場内に関西支局を置いた。39年、日本野球連盟に改称。戦局悪化の44年、日本野球報国会と改称、英語使用を規制した。戦後49年暮れ、セ・パ2リーグに分立・再編。日本野球機構が設立された。

続きを表示

この記事のフォト

「大谷翔平」特集記事

「始球式」特集記事

2020年8月14日のニュース