元東海大四・西嶋亮太さん 魂の超スローカーブは「勝つために」“試合を動かす力”の集大成

[ 2020年5月24日 10:08 ]

あの夏の思い出を語る西嶋亮太さん
Photo By スポニチ

 長い高校野球の歴史の中には人々の記憶に残る一球がある。2014年夏の甲子園。21年ぶりに出場した東海大四(南北海道・現東海大札幌)は、1回戦で強打を誇る九州国際大付(福岡)に快勝した。当時のエース・西嶋亮太さん(24)が放った計測不能の超スローカーブは話題となった。その後、インターネット上では是非を巡って意見が飛び交った。6年たち、西嶋さんがあの夏を振り返った。

 超絶の一球は、ベンチでの一言で決まった。「ここだな」。西嶋さんの言葉に、隣の上野純輝捕手がうなずいた。直後の4回。この回先頭の3番・古沢勝吾(現ソフトバンク)への初球。スライダーと同じ握り方から、手首の使い方だけ変えて投じた一球は高々と弧を描いて上野のミットに収まった。4万7000大観衆のどよめき、そして“空気”を一瞬で引き寄せた。

 「ここで乗れば絶対に勝てる。(決まって)僕が一番びっくりした。“決まった”と」

 最も警戒していた打者だからこその選択だった。だが超遅球だけでは意味がない。西嶋さんが見てほしかったのは、視線を集めた中でいかにどういう球を投げて打ち取るかだった。古沢はスライダーと外角直球で空振りを奪い、最後は中飛。続く4番・清水優心(現日本ハム)は外角直球で三振を奪った。4回の2者連続を含め、この試合で投じた超スローカーブは計4球(※1)。超がつく緩急で強力打線を幻惑した。

 あの夏は、西嶋さんが1年をかけて磨いてきた“試合を動かす力”の集大成だった。駒大苫小牧に全道準決勝で延長12回0―1で惜敗した前年秋は、自分の存在をライバルに意識付けた。春以降は「2択の攻め方」にテーマを置いた。ストライクかボール、直球か変化球。一球に対し2択で考え、次に進む。それを繰り返し、自分らしい投球を追求した。迎えた夏。試合を重ね、成長を実感できたことで超スローカーブへの選択肢が生まれた。

 「正直、あの球がなくても良かったかもしれない。ただ、あの試合は相手が(優勝候補の一角で)格上。勝つためには“動かす”しかないと思った」。1人の打者、1イニング、1試合。五感を研ぎ澄まし、常に考えて投げていた。九州国際大付戦は、2回1死満塁をしのぐなど序盤2イニングで41球。あのタイミングで投げることに、意味があった。

 勝つための選択だったからこそ、試合後の“論争”(※2)は思いもよらなかった。心配して宿舎を訪れた父親、報道陣にも「気にしない」を貫いた。強がっていたわけでない。「チームメート、親、友達。応援してくれた人がいたから。その人たちのために頑張ろうと」。冷静だった。以前から、ネット上での批判的な言葉にも目を通し、自分を客観的に見ることを心掛けていたという。そんな中でのダルビッシュ(現カブス)の“擁護”発言。西嶋さんは「寝ようと思ったら(友達らからの)携帯が鳴りまくった」と笑う。

 古沢とは、それを機に今も連絡を取り合う仲。あの一球と同時に古沢の名前が出ることに申し訳なさもあったが、「おまえのおかげでよく動画に出てくる。いい思い出だよ」の言葉に胸のつかえが下りた。今思う、あの夏。「相手をバカにしているとも言われたが、自分らしくやっていた。今でも実家に帰ると、たまに試合を見る。解説の人が“楽しくやってますね”と自分が意識していたことを言ってくれていて、思いは伝わっていたんだなと。自分を出せたし、悔いはないです」。高校野球ファンの記憶に残る究極の一球だった。(竹内 敦子)

 (※1)4回先頭の古沢への初球に投げたのを皮切りに、6回2死での古沢への1、2球目、8回2死での清水への初球の計4球。全てボール。

 (※2)1回戦翌日に元テレビ局アナウンサーがツイッターに否定的な発言を投稿。それをきっかけにネット上で論争に。ダルビッシュは「(超スローカーブは)自分としては一番難しい球だと思っている」とつづった。

 ◆西嶋 亮太(にしじま・りょうた)1996年(平8)4月10日生まれ、帯広市出身の24歳。小学1年で野球を始める。帯広六中時代はとかち帯広シニアでプレー。東海大四では1年春の札幌支部予選で背番号10で初ベンチ入りした。卒業後、社会人野球のJR北海道(現JR北海道硬式野球クラブ)に入り投手、内野手として4年プレーし、その後退社。来月から新天地で営業職として勤務する。

続きを表示

この記事のフォト

「大谷翔平」特集記事

「始球式」特集記事

2020年5月24日のニュース