【内田雅也の猛虎監督列伝(20)~第20代 ドン・ブレイザー】「岡田使え」で退団した信念の指揮官

[ 2020年5月10日 08:00 ]

1980年2月24日、米アリゾナ州テンピでのキャンプで岡田(左)の守備を指導するブレイザー監督(右から2人目)
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 広岡達朗は神宮外苑イチョウ並木沿いにある皇家飯店で、ヤクルト球団首脳と会食していた。同じころ、大阪では阪神球団社長・小津正次郎は記者団に「外国人監督の招へい」を明かしている。1978(昭和53)年10月26日のことだ。広岡は辞意を撤回し阪神監督の可能性は完全に消えた。

 外国人とは10月11日、広島ヘッドコーチを「解任される前に」と辞任したドン・ブレイザーだった。セントルイスの自宅に電話で打診し、ハワイ経由で来日したのが11月3日。4日には監督就任発表が行われた。

 「シンキングベースボールにファイティングスピリット、ガッツプレー。今はおとなしすぎる」球団初の外国人監督は意識革命を強調した。

 問題は田淵幸一の処遇だった。日本シリーズに敗れた翌10月23日、辞任する阪急監督・上田利治が「阪神から田淵放出の話があった」と明かし、一気に表面化していた。

 ブレイザーは会見で田淵について「いい打者だ。ホームランバッターでもある。欠点もあるが完全な選手はいない」と明言を避けた。だが本心は「田淵は代打でしか使えない」と構想外でトレード要員の方針を球団に伝えていた。

 近鉄、南海など数球団から申し入れがあり、連日トレード報道が飛び交った。なかでも熱心だったのが西武だった。

 小津とも親交がった監督・根本陸夫は11月14日午後5時40分、大阪・梅田の阪神電鉄本社に正面玄関から入っていき、交渉を進めた。交換要員でもつれ、会談場所を隣接するホテル阪神に移し、この時点で田淵―若菜嘉晴、真弓明信の1対2の基本線で合意した。夕方4時、小津は田淵の家に電話入れた。留守で家人に「帰宅したら連絡してほしい」と告げた。

 小津は「時間も遅いので呼び出して通告するのはあしたの午前中にしよう、と決めていた」と、玉置通夫『これがタイガース』(三省堂書店)にある。同様のことが他の文献でも散見される。

 しかし、田淵本人に聞くと「違うよ」と否定する。「夜中に電話がかかってきたんだ」

 田淵によると、その日は江本孟紀らと和歌山・橋本カントリークラブでゴルフを楽しみ、西宮市神垣町の自宅マンションに帰ったのは夜だったという。そろそろ寝ようとパジャマに着替えた午前1時、電話で球団関係者が「すぐホテル阪神に来てほしい。小津社長から話がある」と言われた。愛車キャデラック・エルドラドで向かった。確かに非常識で小津の話と食い違う。

 だが当時のスポニチ本紙を見返せば、事情が異なる。14日は秋季練習が午後1時前に終了。田淵は島野育夫とゴルフ練習場、4時すぎに知人と神戸に出向いた。携帯電話などない時代、午後10時、出先から自宅に電話すると、夫人から小津と根本がトレード問題で話し合っていると知らされた。田淵は<「かなり帰るのが遅くなる」と一方的に電話を切ってしまった>とある。

 いずれにしても、田淵がホテル阪神に着いたのは真夜中の15日午前1時50分だった。1250号室で小津、球団代表・岡崎義人との会談は時に怒号となり、廊下にいた番記者にも聞こえた。「いずれは監督にと言ったのはどこの誰ですか!」

 西武への移籍を告げられた田淵は「冷たい球団だ」と荒れた。午前4時に帰宅し9時に起きた。「ロッカーを整理してくる」と甲子園球場へ向かった。さらに小津とも親しい歯科医・平岡俊彦宅、妻の実家、谷口忠市宅に相談に出向いても「あくまでブレイザーのせいにする」と球団への不満がおさまらなかった。23日、西宮・甲陽園の料亭「播半」で根本と会い、ようやく西武行きを表明した。

 この間に大事件が起きた。巨人が野球協約の隙間をつく「空白の一日」を利用し21日、江川卓との契約を発表したのだ。22日のドラフト会議では4球団競合で阪神が交渉権を獲得。混乱は長引いた。コミッショナー・金子鋭が「強い要望」でトレードを提案する前、富士銀行難波支店で阪神オーナー代行(本社社長)・田中隆造と密会、根回ししていたと、当時秘書部長(後の球団社長)・三好一彦から聞いた。

 明けて79年、キャンプイン前日の1月31日、小林繁とのトレードが成立。2月10日、ホテル阪神での入団会見で小林は「同情されたくない」と語り、悲劇のヒーローとして阪神にやって来た。
 小林の巨人戦での快投には鬼気迫るものがあった。巨人相手には8勝0敗。22勝をあげ、最多勝に輝いた。田淵なき後の主砲・掛布雅之が初の本塁打王に輝いた。

 6月2日には謹慎、自粛明けで初登板の江川と後楽園で対戦。マイク・ラインバック逆転3ランなど3本塁打でKOし猛虎党の留飲を下げた。

 ただシーズンは61勝60敗9分と辛うじて勝ち越し4位。10月6日には広島戦(広島市民)で敗れ、目の前で優勝を決められた。最後を締めた江夏豊は阪神を出て4年、プロ13年目の初優勝だった。放送席で解説の村山実、足を運んだ75歳の藤本定義も涙を流した。

 ドラフト会議では目玉だった早大・岡田彰布を6球団競合のうえ引き当てた。地元大阪出身で父親が古くから阪神の有力な後援者。新星誕生でファンの期待が高まった。

 80年のキャンプは甲子園で1次の後、米アリゾナ州テンピで2次を行った。キャンプ中、新外国人デーブ・ヒルトンが入団した。前年限りでヤクルトを解雇となり、ブレイザーが獲得を進言していた。小津はテストで採用可否を決める考えだったが、<ブレイザーが「入団できそうだ」と連絡してしまった>と玉置の先の書にある。岡田と同じ内野手のヒルトン獲得が火だねとなった。

 ブレイザーは岡田の起用には慎重で「プロとして基本ができていない。守備が未熟だ」「メジャーではルーキーをいきなり起用しない」と先発では使わず、大物ルーキーにも妥協しなかった。

 だが、ヒルトンは開幕から低打率に沈み、打席に向かうとスタンドから「岡田コール」が巻き起こった。不満を募らせたファンはブレイザーの自宅にカミソリ入りの手紙を送り、球場を出た車を取り囲んだ。妻のサラは恐怖でノイローゼとなり「こんな野蛮なところにいたくないわ」と言い出した。

 小津はブレイザーに岡田起用を勧め、さらにヒルトン解雇と新外国人獲得に動いた。ブレイザーは「監督の了解なしに新外国人を探しだしたのは約束が違う」と現場介入に反発した。両者の対立は限界に達し、ていた。5月15日、甲子園球場でブレイザー退団が発表となった。

 前年、ブレイザーをヘッドコーチで起用していた広島監督・古葉竹識は退団劇を予見していたと当時の本紙にある。「自分の野球以外耳を貸さなかった」

 信念の指揮官だった。無念を示すように、甲子園には激しい五月雨が降っていた。=敬称略=(編集委員)

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