「野球塔」に祈る戦後75年、そしてコロナ禍の球児

[ 2020年5月10日 07:00 ]

甲子園球場外周にある野球塔。2010年に再建された
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 【内田雅也の広角追球】自宅から3キロ余りの甲子園球場に散歩で行くと、いつも南東角に立つ野球塔が迎えてくれる。甲子園歴史館の玄関前にある。朝日に夕日に輝く高さ約15メートルの塔だ。

 選抜高校野球80回、全国高校野球選手権90回大会を迎える2010年3月に再建された。

 計画発表当時、甲子園球場長だった揚塩健治(現阪神球団社長)は「高校野球開催時、応援団が南の浜甲子園専用駐車場から歩いてくる際の目印となるだろう。応援団の玄関口だ」と話していた。言葉通り、応援団ではないが、塔を目指して、よく歩いている。

 初代野球塔は1934(昭和9)年、全国中等学校優勝野球大会(今の選手権大会)が20回大会を迎えたのを記念し、球場の北東、現在の兵庫県警甲子園署のあたりに建てられた。

 高さは今の2倍以上、約33メートルもあった。塔の周りは直径35メートル、8段の階段型観覧席が設けられ、最上段には20本の柱廊(ちゅうろう)があった。古代ギリシャの円形格闘場コロッセオを連想させた。観覧席は2500忍収容で、大会前日には茶話会が開催された。

 戦前、塔のある西畑地区に住む子どもたちにとっては格好の遊び場だった。戦後、球場前で食堂・土産物店を開く「甲子園シミズ」の次女、清水栄子は小学生だった。「円形の柱にそれぞれが立って、ジャンケンで陣地を取ったり、戦争ごっこをしたり……」懐かしく、楽しい場所だった。

 柱には歴代優勝校名、選手名が刻まれた銅板レリーフがはめ込まれていた。呉港中(現呉港高)の優勝投手、後の「ミスター・タイガース」藤村富美男の名前もあった。

 なかに天川清三郎の名前もあった。平安中(現龍谷大平安高)が春夏を通じ全国大会初優勝した38(昭和13)年夏の優勝投手だ。岐阜商との決勝では逆転サヨナラの生還を果たしている。

 一人息子で、少しでも両親を楽にとプロ入りを選んだ。39年、南海軍(現ソフトバンク)に入団。完封勝利も飾った。40年シーズン終了後に応召。44年、フィリピン戦線にいた天川はマニラで開催された日比親善野球に出場し、フィリピンチームに初めて勝った。

 <隊に戻ってきた天川は、うれしそうに夢を語った>と永井良和『ホークスの70年』(ソフトバンク・クリエイティブ)にある。

 「国に帰れて、嫁さんもろたら、きっと男の子できる。そしたら、野球塔見せたんねん」

 しかし、夢はかなわなかった。レイテ島守備のため、カトモン山に派遣され、10月26日夜、天川の鉄かぶとを銃弾が射抜いた。頭部貫通銃創により、戦死。平安悲願の全国制覇から6年、24歳だった。

 戦時中の金属供出で野球塔の銅板は軍に差し出された。さらに空襲でとどめを刺される。45年5月10日、午前10時すぎ、B29の編隊が甲子園球場周辺を爆撃。球場への直接の被害はなかったが、野球塔の先端がもぎ取られた。ちょうど75年前のことだ。

 野球塔は後に浜甲子園の飛行場から飛び立つ航空機の離着陸の妨げになるとして、撤去された。近くの川西航空機は戦闘機「紫電改」を製造していた。

 今、再建された野球塔の前に立つと、天川が語った夢を思い、無念を思う。戦争さえなければ、まだまだ野球を続け、結婚もし、子どももできたことだろう。家族で野球塔を訪れ、レリーフに刻まれた自身の名前を妻や息子に誇らしげに見せたことだろう。
 むろん天川だけではない。戦後75年、戦争に散っていった幾多の野球人を思う。

 戦後、高校野球は「白球飛び交うところに平和あり」をうたい文句としてきた。ところが今年はどうだ。戦争でもないのに野球が消えた。新型コロナウイルスのまん延で選抜高校野球は中止となり、夏の選手権大会の開催は不透明のままだ。何とかして、球児たちの思いを、夢をかなえさせてやりたい。

 ただ、どうすることもできない。もちろん自覚ある行動で「密」を避け、家にいようと努めている。在宅勤務の合間、外出は人ごみを避けての散歩である。野球塔を見上げ、戦没野球人の慰霊と、そしてコロナ禍で辛い日々を送る球児たちの未来を祈った。=敬称略=(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高(旧制和歌山中)野球部大先輩の西本幸雄氏は本文に書いた天川の1年年長。西本氏に甲子園出場経験はない。戦後、復員した西本氏は母校グラウンドにコーチに訪れ「グラウンドは戦場だ。戦場では常に駆け足」と指導した話が伝わっている。

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