阪神・横田が激白1時間 壮絶手術…光を失った2カ月

[ 2019年12月19日 06:50 ]

横田(左)と平田2軍監督(9月26日撮影・坂田 高浩)
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 17年に患った脳腫瘍の闘病を経て、現役を引退した元阪神外野手の横田慎太郎氏(24)は今季限りで退団することを明かした。2度の手術を経験するなど半年に及んだ闘病生活は壮絶なものだった。1時間以上に及ぶロングインタビューの後編を掲載する。(聞き手・遠藤 礼)

 ――闘病生活を振り返って。17年2月の沖縄キャンプ中に目に異常が出てきた

 沖縄のキャンプ中でしたけど、その時からだいぶおかしくて。夜中にトイレに行こうとして起きても、目を開けても視点が定まらなくて、まっすぐ立って歩けなかった。本当に何か物につかまりながら腰をかがめてトイレまで行っていた。それが何回か続いてました。これは何かおかしいいなと。練習中もずっと黒い線が右目に入ってきて。マシン打撃でも芯でうまくミートできなくて、何本もバットも折ってました。頭痛もしてましたし、紅白戦で一塁に出塁した時にリードしても、ピッチャーが、けん制をどうやって投げてくるのかっていうのが急に分からなくなって…イメージできなくて…頭が完全にパニックで。これは異常だなと。

 ――病名を通告された時は

 最初は1人で沖縄の眼科に行ったんですけど、先生から球団のトレーナーを呼んで欲しいと言われて。大きい病院に2人で行ってMRIを撮った後に先生が3人ぐらい僕のところに歩いて来て“こちらも言うのは嫌なんですけど横田選手、一回野球は離れましょう。脳腫瘍という病気です”と言われて。え?ってなって。大阪の大きい病院に行きましょうとなって。そこからはあまり覚えてないですね。最初は目の疲れか何かと思ってたぐらいだったので。

 ――計2回、18時間に及ぶ手術だった

 1回目は普通に終わったんんですけど、2回目はきつくて想像を絶しましたね。手術終わって記憶も1カ月ぐらい無かったですし、何を食べてもすぐに忘れて。さっき食べた昼ご飯が思い出せなくて。お年寄りの方がするリハビリをやって、あぁ、病気かぁと思ってました。

 ――抗がん剤、放射線治療も経験した

 一番きつかったのは、髪をかき上げた時に一気に髪の毛が抜け落ちてきて…。病気なんだな、と実感しました。全身の毛が全部抜けると、真夏なんですけど寒いんですよ。寒気がしてきて真夏なのに長袖、長ズボンで。眉毛も何もなくて、本当に寒くて、毛布にくるまってました。

 ――急な闘病生活で精神的にもダメージは大きかった

 苦しかったですけど、母親がずっと励ましてくれて楽しかったですね。楽しいことをずっと言ってくれて。最初はきつかったですけど、ずっと親が横にいてくれたので前に進めましたね。

 ――野球をもう一度プレーすることは考えられなかった

 ある程度したら、球団の方も、だんだん来なくなったような気がしてきて。後から僕が手術して気を遣っていただいたと理解できたんですけど、自分では手術して、もう契約してくれないんだと思ってました。プロ野球人生が終わったのかと思っていました。

 ――一番つらかった時期は

 手術直後で全く目が見えなかった1~2カ月が一番つらかったですね。手術中は10時間以上もずっと同じ態勢だったので顎の辺りがすごく腫れて、痛くて。口も開けられなかったので母親が小さくご飯をラップに包んで食べさせてくれた。もちろん、その時も親の顔も見えなかったですけど。一度、屋上に夜景を見に連れて行ってくれて、僕は見えなかったんですけど母が“絶対に見えるようになるから”と言ってくれたのは覚えてます。

 ――視力も徐々に回復してきた

 だいぶ見えるようになってきて、一度、父と病院の下の公園に行って、柔らかいボールを顔の前に投げてもらったんですけど、それが全く捕れなくて。その瞬間、野球は本当に無理だと思いました。確信しました。これで終わったと。今でもその瞬間は頭に残ってます。自分の中ですごくショックな出来事だったので。筋肉とかはトレーニングすれば戻りますけど、目が見えないっていうのが…。そんな状態で戦える世界じゃないので。

 ――その状況で野球に対して前に気持ちを向けられたのは

 入院中に球団の方が来てくれて“来年も間違いなく契約するから。復帰するまで背番号24は空けておく”と言ってくれたのが大きかったです。頑張れば近づくんだと思えるようになりました。

 ――入院中は北條らチームメートも見舞いに来てくれた

 髪が抜けてイジッて欲しかったんですけど、みんな僕の姿に衝撃を受けて帰っていきましたね。やっぱりそうなりますよね。

 ――開幕スタメンに抜てきした16年の監督・金本知憲氏も何度も見舞いに来てくれた

 まだ見てくれているんだなと思って励みになりました。“野球のことは考えずに焦らずに”という言葉をずっとかけられて安心しました。金本さんの娘さんが僕のファンと言ってくれて、一緒に見舞いに来てくれて千羽鶴をプレゼントしてくれて泣きそうになりました。掛布さんも直筆で色紙に“復活”という文字を書いてくれて、ずっと枕元に置いてました。

 ――病気の人たちに勇気を、という言葉を繰り返してきた

 17年9月に寮に帰ってきた時に、これからは野球だと思えた。次は自分が今、苦しんでる方を助けたいと入院中よりも、思うようになりました。何もできないのに助けたいとか、そんなこと言っていいのかなと思いましたけど、自分が今から野球すると決めたので、誰かを助けたいという気持ちがありました。

 ――闘病が終わっても野球選手としてのリハビリが待っていた

 自分で野球がしたいと決めたので。厳しいことは分かっていましたけど、覚悟を決めて。自分がしたいと言ったのでちょっとずつでも良いから頑張っていこうと思ってました。目が見えなくて、リハビリ中も“なんでだ”とずっと思ってましたけど、これを乗り越えないと前へ進めない。何か小さなことでも良いので1日1つ良いことを見つけてプラスに考えていました。

 ――プラス思考にもなかなかなれないのでは

 病気になって、できるかな、大丈夫かな、ってマイナスになっても前に進まないと思ったので。プラス、プラスで1日1個、何かできたっていうのを続けていけば目標に近づいていくんじゃないかと考えるようになりました。

 ――リハビリの過程で喜びもあった

 柔らかいボールから硬式ボールに変わった時は嬉しかった。後は寮に戻って2、3カ月経った時にトレーナーの方に“明日からユニホームで練習しよう”と言われた時は、これは前に進んだと。久々にタイガースの選手になれたと思えました。

 ――家族への感謝

 母親は仕事を辞めて、毎日病院にいてくれて、退院した後もアパートを借りて一緒に生活してくれたので。母が横にいなかったら、あんなに早く良くならなかったと思いますし、治療も順調にいかなかった。姉もずっと励ましてくれて。あの両親に生まれてなかったら病気も良くならなかったし、野球もできていかなかったと思う。病気があったから、今まで以上に家族の絆を強くなりましたね。

 ――現役生活は6年間。あらためてプロ入りした時の心境は

 甲子園も行ってない高校から来たので、ドラフト2位と言っても、絶対に活躍できないと親にも言われていた。1人で練習する時間もたくさん作ってやってきました。

 ――16年には開幕スタメンを勝ち取った

 必死にやっていたので、あまり覚えていないんですけど、打ちたい、守りたい、走りたいと小さい子が考えるような気持ちで野球をやっていました。野球を始めた頃の気持ちでずっとやっていました。2軍に落ちるまでは練習でも1球を大事にして、ガムシャラにやってました。開幕スタメンまでは想像してませんでした。ずっと緊張してたのを覚えていますね。

 ――阪神タイガースでプレーできた6年間は

 12球団でも一番の人気球団でプレーできて凄く嬉しいし、いろんな方にサポートしていただいて感謝しかないです。甲子園での声援も、緊張もしますけど、自分の持っていない力も出せた。高校時代にずっと甲子園に行けなくて、ああいう舞台で野球をできたことは自分の財産です。

 ――病院訪問は続けていく

 昨年も自分が行くことで良くなったという方(患者)がいたので、続けていきたいですね。

 ――プレーすることで伝えられたことは

 試合出れなかったのは悔しいですけど、最後にああいうプレーができたので、何か1つでも良いので目標を持っていればうまくいくと思うので。自分はずっと小さい目標を持っていたので、それを見失わずに良かった。どこかで“もういいや”と思っていたら最後のバックホームもできていなかったと思います。

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