内田雅也が行く 猛虎の地<13>玉造公園

[ 2018年12月16日 10:00 ]

岡田少年を育てたブランコと塀

岡田彰布少年の練習場だった玉造公園
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 岡田彰布の伝説に、小学生で大阪球場でさく越え本塁打を放ったという逸話がある。1968(昭和43)年8月、小学5年生、10歳だった。

 当時、南海ホークス子供の会に入会していた。夏休みに南海(現ソフトバンク)主催の少年野球大会に出場し、軟球を木製バットで左中間スタンドに打ち込んだ。何とも驚くべき少年だった。

 リトルリーグのリトルホークス(現ジュニアホークス=ボーイズリーグ・大阪南海ボーイズ)に入り、6年時にはグアム遠征も経験した。

 そんな天才少年はどうやって育ったのか。父・勇郎(86年他界)は阪神の有力な後援者だった。自宅に村山実や藤本勝巳ら多くの選手が訪れた。4歳だった62年阪神優勝時、パレードの先頭車に監督・藤本定義らと一緒に乗った。居間に村山のサイン「道一筋」が飾られ、後に阪神監督就任時に座右の銘とした。村山が引退試合に備えたキャッチボールの相手を務めた。幼いころから、阪神との関わりは相当だ。

 ただ、父が経営する大阪紙工所が忙しく、朝陽ケ丘幼稚園の入園式も祖母に連れられた。父は「頭が良くないと野球はできん、が信条」と大阪市内最古、1872(明治5)年開校の愛日小(1990年閉校)に入学、家庭教師もつけた。

 両親は忙しく、近所に友だちもいなかった。岡田は大阪・玉造の自宅近く、大阪女学院の塀にボールをぶつけて遊んだ。

 隣の玉造公園も大切な練習場だった。阪神監督となり、記者から「この作戦はどこで考えたんですか?」と聞かれると「ブランコの上」と答え、驚かせた。少年時代、ブランコに乗りながら「どうすれば勝てるか」と考えていたそうだ。

 「普通の公園やけどな」と61歳になったいま、岡田は懐かしむ。「小学2年生のころからかなあ。毎日のように玉造公園で野球をしていたよ。硬球を使って、大人からノックを受けていた」

 4年生のころ、ゴロ捕球で飛び込んで左鎖骨を石にうちつけ、骨折したことがある。

 独りで遊ぶ息子を思い、父は知人や社員で野球チーム「大阪紙工クラブ」を作った。大人ばかりの中で村山の背番号11をつけ、「1番投手」で好投、快打していた。

 6年生のある日、阪神の三塁手で名手だった三宅秀史が玉造公園にやって来た。父に「息子はいいセンスをしている。一度、みてやってほしい」と頼まれたのだった。

 「君はいい選手だ。指が短いから投手より、内野手になりなさい」

 三宅の言葉を岡田は今も忘れていない。後に早大で三塁手となり、ドラフト1位で阪神入りする際、16を選んだのは、尊敬する三宅の背番号だったからだ。

 岡田を育てたのは間違いなく近所の公園や塀である。今も当時の場所にある。ただし、公園には「野球、サッカーなど、あぶない球技はやめましょう」の看板が立っていた。=敬称略=(編集委員)

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