大谷 二刀流の原点は父との小3直前からの「野球ノート」

[ 2016年9月29日 09:05 ]

大谷が父と記した「野球ノート」

パ・リーグ 日本ハム1―0西武

(9月28日 西武プリンス)
 大谷の父・徹さん(54=会社員)は、岩手県奥州市の自宅でテレビ観戦。小学2年から野球を始め、初めて優勝を手にした息子の勇姿を見届けた。徹さんは社会人の三菱重工横浜時代に野手としてプレーし、息子が所属した少年野球チームで監督を務めた。今や日本が誇るスーパースターをどのように育てたのか。小学生時代に父と息子が互いに記した「野球ノート」をスポニチ本紙に独占初公開し二刀流の歴史をひもといた。 (取材・構成 柳原 直之)

 歓喜のリーグ制覇から、さかのぼること11年前の05年5月22日。当時小学5年の大谷は全国大会の岩手県予選で公式戦初本塁打を放った。それも満塁アーチ。この日の「野球ノート」に、「ホームランをライナーで打てるように練習したいです」と書いた。結果だけに浮かれない。もっと野球がうまくなりたい。飽くなき向上心は少年時代から変わらぬものだった。

 この「野球ノート」は小学3年になる直前から、大谷が所属する少年野球チームの監督を務めていた父・徹さんが始めさせた。毎日ではなく、大会や合宿などの節目で大谷が「良かったこと」、「悪かったこと」、「目標(これから練習すること)」を記し、父がそこにアドバイスを書き添えていく。徹さんは恥ずかしそうに当時を振り返る。

 「書くことによって頭に入る。褒めるのも、本人を目の前にして褒めたくない。文章的に褒めるのが、良いんじゃないかと思った」

 ノートに何度も出てくる徹さんの言葉がある。

 「一生けんめい元気に声を出すこと」
 「一生けんめい走ること」
 「一生けんめいキャッチボールをすること」

 徹さんはこれらを「野球で本当に大切な3つのポイント」と言う。声を出し、仲間と連係を高め、全力疾走で楽しく野球をやる。キャッチボールは肩を温めるためだけではなく、狙ったところに回転のいいスピンのかかったボールを投げる。それが、肩の強さにつながるという。投げては日本最速の164キロを誇り、打っては22本塁打。さらに走っても、常に先の塁を狙う好走塁が光る。大谷自身もノートに「声がいつもよりだせていたと思った」、「全力で走れていなかった」と書き込むなど、父から学んだ「野球観」がここにある。

 少年時代に高い次元でプレーしていた様子も感じ取れる。徹さんが「10打数10安打10割バッターを目指せ」、「東北の投手で翔(平)の打てないピッチャーはいない」とハッパを掛ければ、息子は「コースによって打ち分けられなくて」と反省点を記す。少年野球チーム時代、2人は全体練習1時間前にはグラウンドに出向き、ティー打撃を行った。徹さんが重点的に指導したのは、広角に打ち分けることだった。

 「直球のタイミングで打ちにいって、ピタッと止まって変化球に合わせてミートするという打ち方。“左中間に飛ばして、二塁打をとにかくたくさん打ちなさい”と言ってきた」。大谷の長所は逆方向にも強い打球を打てること。このティー打撃で養われたのだ。

 「この時にはプロなんて考えていない。社会人までできればいいかなくらいしか考えていなかった」。徹さんはそう言って笑うが、二刀流誕生は偶然の産物ではない。親子二人三脚で培ったものだ。その原点に2人の「野球ノート」があった。

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