恩讐の彼方に――張本勲氏が日本ハムのユニホームで初めての始球式

[ 2016年9月1日 08:00 ]

8月30日、日本ハムの初代ユニホーム姿で大谷を相手にファーストピッチセレモニーを行った張本勲氏

 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】大谷翔平が打席に入る。今をときめく二刀流。これ以上の相手はいない。張本勲氏の投じた山なりのファーストピッチはワンバウンドでホームに届いた。8月30日、「レジェンドシリーズ2016」と銘打った日本ハム―楽天3連戦初戦(東京ドーム)の試合前に行われた始球式である。

 「喝だな」

 本番前にブルペンで5球の肩慣らし。1球もノーバウンドでは届かなかった。それでも「少し前から投げたらどうですか?」という関係者の声にかぶりを振った。76歳の気概。「これでも元プロ野球選手だから」。本塁まで18・44メートル。マウンドのプレート板を踏んでの一投はやはりワンバウンドとなり、自ら「喝」を入れたのだ。

 身にまとったのは日本ハム初年度の1974年前期に着用したユニホーム。「42年ぶりだから、感慨深いものはありますよ」と話したが、いい思い出はなかったはずだ。

 59年に入団した東映フライヤーズは映画産業が斜陽になった73年2月、日拓ホームに身売りされた。パ・リーグに前後期制が導入された年。前期は5位に終わり、田宮謙次郎監督が更迭された。張本氏は後任に指名された土橋正幸監督から「おまえが手伝ってくれなきゃ、オレは受けん」と口説かれ、ヘッド兼打撃コーチ兼現役選手の3足のわらじを履いた。

 兄貴分の土橋監督と手を携えて後期は6年ぶりのAクラスとなる3位に浮上。手応えを感じていたら再び身売りが決まった。買ったのは日本ハムだった。大社義規オーナーと同じ香川県出身の三原脩氏が球団社長、三原氏の娘婿にあたる中西太氏が監督に就任。土橋監督は解任され、張本氏は一選手に戻った。

 それだけではない。新生日本ハムファイターズ最初のシーズンを終えたオフ、大杉勝男がヤクルト、白仁天が太平洋(現西武)、大下剛史が広島へトレードされた。いずれも気にかけていた後輩である。

 「手足をもぎ取られる思いがした。次は自分かと思いましたよ」

 やりきれない思いを抱えて迎えた75年は導入されたばかりのDH制に慣れず、右足の肉離れもあって打率・276。10年ぶりに3割を切った。放出説が流れる中、張本氏は三原球団社長に「私を必要ないと思っておられるならトレードに出してください」と直訴。「君がプレーしたい球団があったら遠慮なく言ってくれ。ケチなことはせんよ」と言われ、古巣との決別を決めた。

 高橋一三、富田勝との1対2のトレードで巨人に移籍し、長嶋茂雄監督の下で76、77年のリーグ優勝に貢献した。ファイターズでプレーしたのはわずか2年。チームを離れて41年がたつが、日本ハムの始球式を務めるのは今回が初めてだ。

 「そりゃあ青春時代を過ごしたチームだから。ああいう形で出ることになったけど、大社オーナーには“残ることはできないのか”と引き留めていただいた。今も感謝してますよ」

 恩讐の彼方に。古巣は今、最大11・5ゲーム差をつけられたソフトバンクに食らいついている。大逆転優勝のカギを握る大谷について「投手一本にすべき」と言い続けてきたご意見番。本塁打が20本に到達しては打撃も認めざるを得ない。

 「誰が教えたか知らんけど、よくなってる。遠心力が使えているから逆方向でも飛距離が出る。典型的なホームランバッターの打ち方。“ピッチャー一本で”という考えは変わらんけど、あれだけ打ったらなあ…」

 喉もとまで出かけている「あっぱれ」。古巣を頂点に導いてくれたら、大きな声で出すしかない。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年、岡山市生まれ。早大卒。東京の予備校に通っていた74年10月、冬期講習申し込みの列を離れて後楽園球場に走り、長嶋茂雄最後の雄姿に涙する。82年の巨人を皮切りにもっぱら野球担当。還暦を過ぎ、学生時代の仲間と「バンドやろうぜ」で盛り上がっている。

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