追悼連載~「コービー激動の41年」その92 レイカーズを作ったのは若き新聞記者

[ 2020年5月18日 08:00 ]

レイカーズが誕生したミネアポリス市(AP)
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 1946年12月1日。当時ともにウイスコンシン州を拠点にしていたプロチーム「シボイガン・レッドスキンズ」と「オシュコシュ・オールスターズ」の試合がミネソタ州ミネアポリスで開催された。

 この試合の実現に奔走し、やがてコービー・ブライアントというスーパースターが誕生するレイカーズというチームに“大河の一滴”をもたらしたのは26歳の若き新聞記者、シド・ハートマン。ハートマンはレストランや映画館を経営していた友人のベン・バーガーに「バスケットボールがこの町に受け入れられるかどうか試してみないか」という話をもちかけていた。

 これが当時のプロリーグ、NBLの試合を開催するという興行につながった。当時としてはかなり身体能力の高い選手もいた。それが193センチという身長でオールスターズのセンターを務め、「カウボーイ」という異名を持っていたリーロイ・エドワーズ。ケンタッキー大を1年で辞めた彼はすぐにプロ選手となり、NBLの初代得点王にもなった。映像が残っていないので断言はできないが、ミネアポリス公会堂に集まったファンは、次々に得点を重ねるエドワーズのプレーに目を奪われたはずだ。まさにその姿は1940年代のブライアントだった。

 そして人々の熱狂ぶりを垣間見たハートマンはすぐに次のアクションを起こす。「新しいチームを作ろう」とバーガーを説得。アイスショーなどのプロモーターをやっていた実業家のモーリス・チャルフェンをも抱きこんでミシガン州デトロイトを本拠にしていたNBLのジェムズの買収に成功したのである。

 買収額は1万5000ドル。額の評価は難しいが、実に勇気ある決断だった。地理的にミネアポリスからすぐ呼べる場所にプロバスケのチームがあったからこそ、レイカーズ創設へのムーブメントが沸き起こったと言っても過言ではない。

 ミネアポリス市民の気持ちを高揚させたレッドスキンズの地元シボイガンの人口は20万人で、オールスターズの地元だったオシュコシュは16万人。厳冬のウィスコンシン州にある2つの中規模な都市は、レイカーズの誕生に大きな影響を与えたのである。

 ただそれでもなおレイカーズは「NBA」という名のリーグに所属するチームではなかった。競泳の全米選手権で日本の古橋広之進が400、800、1500メートルの3種目で世界新記録を樹立する2週間前となった1949年8月3日、BAAというリーグがレイカーズが所属していたNBLを吸収し、ここで今のNBAが誕生した。NBAは1946年からスタートしたということになっているが、最初の3年間はアイスホッケーのオーナーたちが所有していたBAAの歴史。BAAは大都市にアリーナを所有していたが実力のある選手が不足し、NBLは選手の層は厚いがマーケットが小さかった。

 両者の長所だけを組み合わせたのがNBA。ブライアントが生まれる39年前に歴史は大きく動いたのである。

 本拠をミネソタ州ミネアポリスに置いていたレイカーズは強かった。NBA加入初年度となった1949年シーズン(全12チーム)は44勝16敗で西地区の2位。ファイナルではワシントン・キャピトルズを4勝2敗で下していきなりリーグ制覇を達成した。のちにNBAの対抗組織となるABAで初代コミッショナーを務めた208センチのジョージ・マイカンを擁して1954年までにファイナルで5回優勝。ミネアポリスがNBAの“中心地”のような時代があった。しかし栄華は長く続かない。なぜならプロのバスケットボールはまだ米国内で真のメジャー・スポーツではなく、リーグ運営の基盤は脆弱だった。そしてやがてブライアントを受け入れることになるレイカーズの“旅”が始まっていく。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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