「東洋の魔女」田村洋子さん、厳しかったけど愛があった“鬼の大松監督”への感謝

[ 2019年7月10日 10:00 ]

2020 THE YELL レジェンドの言葉

1964年バレーボール女子代表の田村洋子さんは東京五輪の金メダルを首にかける(撮影・荻原 浩人)
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 64年10月23日の東京五輪女子バレーボール決勝、日本―ソ連戦は視聴率66・8%を記録。文字通り日本中が東洋の魔女の活躍に熱狂した。大松博文監督の熱血指導は汗と涙のど根性物語として今に伝わるが、実は練習中に選手に対して手を上げたことは一度もなかったという。当時19歳8カ月の最年少魔女だった田村(旧姓篠崎)洋子さんにあらためて当時の思い出を語ってもらった。 

 田村さんは埼玉・大宮高3年の時に大阪の日紡貝塚で開催された第1回高校選抜合宿に参加した。当時の全日本は日紡貝塚の単独チームで、その日紡貝塚を率いていたのが「鬼の大松」だった。「大松先生は彫りが深くて凄い大人の人に見えました。あまりしゃべらない、余計なことは言わない人でしたね」

 合宿後、強豪・四天王寺高で活躍していた磯辺サタと田村さんが新たに全日本に選ばれ、さっそくモスクワでの世界選手権に同行することになった。高校生の田村さんがコートに立つことはなかったが、前年61年の欧州遠征で22連勝を飾り、現地メディアから「東洋の魔女」の称号を贈られていた全日本は河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村勝美らそうそうたるメンバーがそろい、ソ連を3―1で破って初優勝を飾った。

 大松監督と主力選手たちは大会後に引退するつもりだったが、2年後の東京五輪で女子バレーボールが正式種目として採用されたため、日本協会が現役続行を懇願。熱意に押される形で翻意し、再び金メダルを目指しての特訓が始まった。

 「高校では先生に殴られたり蹴られたりするのが当たり前だった」という田村さんは「鬼の大松」の指導に戦々恐々としていたが、東京五輪までの2年間、大松監督に殴られたことは一度もなかった。他の選手が殴られたところも見た記憶はない。「今で言う体罰やパワハラは一切ありませんでした。紅白戦で負けた方が先生にお尻を叩かれたことはありましたけどね。逆に叩かれた方がましだと思ったぐらいですよ」

 なぜ「叩かれた方がまし」なのかと言うと、「できるまでは練習が終わらない」からだった。レシーブ練習なら1人10本上げれば交代できる。ただし1本見逃すと“マイナス査定”になる。9本まで上げても疲れてあと1本が上げられないと逆に8本、7本と減っていく。倒れていてもボールは次々と送られ、やがては0どころかマイナス1、2と容赦なくカウントは続く。それでもコートから出ることは許されず、「できるまで」練習は続く。「練習から全て真剣勝負でした。それで培われたのは目の前の1本を絶対に諦めないということ。絶対に目の前の1本を見逃さないという気持ちが自然と身につきました」

 午後3時から始まった練習が翌朝まで続いたことも一度や二度ではなかった。それでも選手たちは文句一つ言わず、全身あざだらけになってコートの上をのたうち回った。「先生のほうがもっと大変だということがみんな分かっていましたから。選手は12人いて交代するけど、先生は1人だけ。今みたいにコーチがたくさんいるわけじゃないので、ボールを打つのも投げるのも全部1人。1日に2000~3000本は打っていたんじゃないでしょうか」

 ただ厳しいだけではなく、大松監督の指導にはユーモアもあった。レシーブ練習で動けなくなったレギュラー組の宮本に向かって大松監督が「もう、動けんのかあ」と笑いながら言うと、倒れ込んでいた宮本が「うちは丑(うし)年ですねん」と返し、一瞬空気が和んだのを田村さんはよく覚えている。それが選手を追い込みすぎないための秘けつだった。

 「守りは最大の攻撃」を合言葉に回転レシーブを習得した魔女たちは東京五輪の決勝戦でもソ連の強打をことごとく拾いまくった。最年少の田村さんはタイムのたびに先輩たちにタオルを渡すのが役目で最後まで出番はなかったが、3―0のストレートでソ連を破った瞬間、コート上で抱き合って喜びを分かち合った。

 青春の全てをささげて手に入れた金メダルは横浜市の自宅で大切に保管されている。2度目の東京五輪まであと1年。再び世界に挑む後輩たちへ、田村さんは厳しくも優しいエールを送った。

 「あれだけ練習すればバカでも勝てると言われたこともありましたけど、バカほど練習するのは大変なんです。だから私たちは勝てたんです。五輪は4年に1度。人生に1度あるかないか。今の選手はよく楽しみたいとか言うけど、楽しいのは勝つから楽しいんですよ。始める前から楽しもうというのは理解できない。負けたら楽しくないじゃないですか。来年の五輪では頑張ってほしいし、ぜひ勝って楽しんでほしいと思っています」

 ◆64年東京五輪VTR 東京五輪は6チーム総当たり(サイドアウトありの15点先取制)で行われ、日本は米国、ルーマニア、韓国を3―0、ポーランドを3―1で破り、同じく4戦全勝のソ連と最終戦で激突した。堅い守りでソ連の強打を拾いまくった日本は15―11、15―8で2セットを連取。第3セットも14―9と先にマッチポイントを握ったが、粘るソ連に1点差まで詰め寄られた。それでも猛練習に耐え抜いた選手たちに焦りはなく、最後は根負けしたソ連がオーバーネットのミスを犯し、6度目のマッチポイントでついに金メダルをもぎ取った。  翌10月24日のスポニチは「世界に君臨 東洋の魔女」の大見出しとともに大松監督の手記を掲載。大松監督は「みんなよくやった。よく私についてきてくれた。今こそ泣いてもよいときだ」と選手たちの頑張りを称えた。

 《いまだ破られぬ視聴率「66.8%》NHKが中継した日ソ戦の視聴率は66.8%で今でもスポーツ番組の最高視聴率として破られていない。2位は02年のサッカーW杯日韓大会の日本―ロシア戦(フジ)の66.1%。3位同決勝ドイツ―ブラジル戦(NHK)の65.6%、4位63年プロレス力道山―デストロイヤー戦(日テレ)64.0%、5位66年ボクシング世界バンタム級タイトルマッチ、ファイティング原田―エデル・ジョフレ戦(フジ)の63.7%となっている。

 《67年世界選手権 主力として優勝》最年少だった田村さんは東京五輪では控えだったが、五輪後に主力選手が引退。レギュラーとして67年の世界選手権(東京)に挑み、再び金メダルを獲得した。ただ、その時は国名の呼称を巡って東ドイツなどが抗議し旧共産圏諸国が大会をボイコットしたため、宿敵ソ連との対決はなかった。「やっと私の番が来たと思ったのに不完全燃焼でしたね」。同年に現役を引退。現在はママさんバレーの指導などを行っている。

 ◆田村 洋子(たむら・ようこ)1945年(昭20)1月29日生まれ、埼玉県大宮市(現さいたま市)出身の74歳。旧姓・篠崎。宮原中でバレーボールと陸上を始め、走り幅跳びと走り高跳びで放送陸上(通信陸上)に出場。卒業後に日紡貝塚に入社し、62年、67年の世界選手権と64年東京五輪で金メダルを獲得した。

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