氷上のプリンス 羽生、複数選手の「最大公約数」からジャンプ習得

[ 2014年2月17日 10:19 ]

羽生結弦 緊急連載(中)

 小学生時代のジャンプのスランプを乗り越えた羽生は、順調なステップを刻み始めた。まだノービス(10~14歳未満)の選手ながら、07年全日本ジュニア選手権で3位。“飛び級”での表彰台は史上初だった。翌08年夏には、日本スケート連盟の強化合宿に参加。そこで浅田真央と小塚崇彦のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を目にした瞬間、脳内にイメージは描かれた。練習を始めると軽々と成功。時計で確かめた「午後4時26分」は羽生にとって、忘れられない時間となった。

 この頃から“羽生流”のジャンプ習得法が確立された。4回転トーループの得意な複数の選手の映像を何回も何回も見直した。ただまねをするだけではない。踏み切りのタイミングやジャンプの角度など、それぞれのいいところをチョイスし、自分の中に取り入れる。羽生は独特の表現で説明した。「最大公約数を見つけること」。そうやって、完全無比な4回転トーループを手に入れた。

 12年5月、それまで拠点にしていた地元の宮城・仙台を離れ、カナダ・トロントに移った。東日本大震災の被災地を離れることに後ろ髪を引かれる思いもあったが、10年バンクーバー五輪金メダルのキム・ヨナ(韓国)を育てたブライアン・オーサー・コーチに師事するために決断。同コーチの門下生には4回転サルコーを跳ぶ、ハビエル・フェルナンデス(スペイン)がいた。名伯楽の指導と身近なライバルが、さらなる進化を後押ししてくれると信じていた。

 トロントの「クリケット・クラブ」はオーサー・コーチの他、スケーティングはアイスダンスで88年カルガリー五輪銅メダルのトレーシー・ウィルソンさん、振り付けは売れっ子のデービッド・ウィルソン氏が担当する豪華布陣。「ハビエルのことはいつも見ている。朝寝坊してかなり不機嫌でも、彼はすぐに跳べちゃうから嫌になる」。ジャンプだけではなく課題だった滑りや表現力も、専門家が毎日厳しくチェック。恵まれた環境で、勝負の五輪シーズンに備えていた。(特別取材班)

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2014年2月17日のニュース