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揺るがぬ哲学を胸に25年ぶりの復帰 G大阪取締役・和田昌裕氏

[ 2020年12月16日 05:30 ]

和田昌裕氏
Photo By 提供写真

 J元年の1993年5月16日、リーグ開幕の浦和戦でG大阪のクラブ第1号ゴールを挙げた。95年に神戸に移籍し、引退後は神戸や京都、タイで監督や強化部長を歴任。そして今年、25年ぶりに強化アカデミーを統括する取締役として復帰した。和田昌裕氏(55)は今、“縁の下の力持ち”として古巣を支えている。

 当初は「今後を考えたときにG大阪に戻るというイメージはなかった」という。だが昨年末、当時副社長の小野忠史氏(59)に「手伝ってくれんか?」と打診され、心が動いた。今年4月に社長に就任した小野氏との出会いは松下電器(現パナソニック)時代の87年。PL学園野球部で全国制覇した小野社長と、順大で大学日本一になった和田氏は馬が合った。

 信頼を寄せる先輩からのオファーはうれしかったが、当時J2金沢の強化アカデミー部長を務め、すでに20年シーズンに向けた契約延長にもサイン。道義上、1度目は断った。だが関西に残している家族のことも考え、金沢サイドに相談。すると「任せるよ」と背中を押してくれた。「金沢にもG大阪にも感謝しかない」。自らの経験を惜しみなく古巣に注ぎ込む決意を固めた。とはいえ、そこは和田氏らしさが凝縮されている。

 「GM的な立場の人と強化部長の両者がいるクラブはある。でも強化部長こそがチームとして向き合って、管理していくのが大事だと思っている。僕がしゃしゃり出ていくのではなくチームは松波(強化アカデミー部長)が見て、僕はサポートしていくようにしている。ミスはナンボでもしてくれていい。僕が支えるから。そういう思いでやっている」

 トップチーム、U―23チームの練習は当然、時間が許せばユースの練習や試合にも顔を出す。だが、あれこれと口出しすることはしない。聞かれればヒントを与え、ちょっとしたアドバイスや経験を伝えることにとどめる。「常に表舞台には出たい」と笑うが、黒子に徹するのは長年サッカー界に身を置いた中でできあがった哲学があるからだった。

 強化アカデミーを統括する取締役として、25年ぶりにG大阪に復帰した和田昌裕氏が最も大事にするのは“輪”だ。「僕はとげとげしい雰囲気が嫌い。良い関係性は大事だと思っている。選手とコーチ、コーチと監督、あとは部署を越えた社員同士も。同じ組織に属している以上は同じ方向、空気感をつくりたいと思っている」。現場の一体感が強くなるクラブはピッチ外の社員の意識も違う。

 G大阪の選手として在籍した当時と比べて、社員数は増えた。京都田辺町(現京田辺市)にあった練習場も吹田市に移り、格段に良くなった。規模が大きくなれば、考えも多岐に渡る。そこを一つの方向に向けるため、和田氏は毎週金曜日に行われる朝礼を活用している。各部署のあいさつや報告終了後、最後にあいさつをする。「週末の試合は大事とか負けられないとか。一致団結できるようなあいさつや雰囲気作りをしている。そういうメッセージを送っているつもり」。全てはチームが試合で勝つため、サポーターやスポンサー企業に喜んでもらうため。「いろいろと経験させてもらって、チームは総合力と感じている。どっかに“どうでもええわ”と思っている人がいれば勝てない」。やるべき仕事は、ピッチ内だけではない。

 クラブとして今後、見据えているのがアジア戦略だ。「僕がタイにいたこともあるけど、G大阪というチームを少なからず知っている人はいる。次はクラブとして“凄い”と思える人も増やしたい」。指導者やクラブ職員の現地派遣もその一つ。アジア諸国にノウハウを伝え、文化や常識が違う外国での生活や仕事を経験することで人間的なたくましさも身に付けてもらう。新型コロナウイルス感染拡大の影響で予定変更を余儀なくされているが、互いに“Win―Win”の関係性をつくろうと考えている。

 「Jクラブの中で2番目にタイトルが多い。成功している方だとは思う。でも常に優勝争いが期待されるクラブだから」。よりビッグクラブに成長する戦いに、挑んでいる。

 ◆和田 昌裕(わだ・まさひろ)1965年(昭40)1月21日生まれ、神戸市出身の55歳。兵庫・御影高から順大。87年にG大阪の前身である松下電器(当時JSL2部)に入団。90年に日本代表に選出(出場なし)。95年に神戸(当時JFL)へ移籍。J昇格に貢献し、97年に現役引退。神戸で強化部長や監督、チョンブリFC(タイ)やJ2京都の監督などを経て17年からJ2金沢の強化アカデミー本部長を務める。

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2020年12月16日のニュース