熱狂の晩秋

[ 2019年11月25日 08:00 ]

広瀬竜王と対局する藤井七段 (撮影・西川祐介)
Photo By スポニチ

 【我満晴朗 こう見えても新人類】JR千駄ケ谷駅から将棋会館に向かう途中、鳩森神社付近で10メートルほど先を歩くスーツ姿の男性が視線に入った。背には黒のデイパック。靴は…既視感のある同色のスニーカー。

 あっ。藤井聡太七段だ。

 令和元年11月19日。将棋の第69期大阪王将杯王将戦・挑戦者決定リーグ最終日の朝。

 一般的には「おはようございます」と軽くあいさつでも交わすのが礼儀作法なのだが、相手が対局を控えた棋士の場合は少々、いや、かなり気を使う。声を掛けるなんてとんでもない。目と目を合わせるのも避けたいほどだ。せいぜい黙礼程度で済ますのがアンリトン・ルール。しかもこの朝は広瀬章人竜王との決戦直前。筆者は藤井を追い越さないように歩行速度を調整し、付かず離れずの絶妙な時間差をキープしたまま将棋会館に入った。朝から変な汗が出た。

 対局取材でもたっぷり汗をかいた。相矢倉の序盤から藤井が積極的に仕掛け、堂々と受けた竜王がさすがの指し回しで徐々にリードを広げていく。もしかしたら一方的な展開で終わってしまうかもしれない…といった空気感に支配しされていた検討室。外はもう日が落ちている。

 戦況を見つめていた深浦康市九段は藤井サイドの継ぎ盤に座り込んで「棋士10人中、7人は向こう側(広瀬)を持つでしょうね」とポツリ。その横に座していた杉本昌隆八段(藤井の師匠)に至っては「3人もこっち側(藤井)を持ちますかね?」と返した。もはやここまでか。この時点で筆者は「広瀬有利」の情報を社内に伝えたのだが…。

 1分将棋に追い込まれた藤井が大逆襲に転じた際の室温は、体感で10度ほど上昇したと思う。見れば深浦も杉本も顔は真っ赤だ。「変調ですか」「いや逆転しましたね」――。あまりの劇的展開に誰もが我を忘れている。筆者の脳中にはタイトル戦出場史上最年少記録更新原稿の書き出しが3、4例ほど躍っていた。こんなドラマ、めったにないぞと心震えながら。

 結果は、さらなる驚愕(きょうがく)。最後は藤井の選択ミスで唐突の閉幕だった。ジェットコースターのような棋譜を残し、17歳の天才はあと一歩のところで大舞台に昇り損ねた。ものすごいものを見させてもらったと思う。

 広瀬の終始落ち着いた対応にも感服した。逆転勝ちを引き寄せた盤上もしかり、敗れた藤井に質問が集中する局後の所作もしかり。勝者としての矜持を保ちつつ、対戦者への心遣いもさりげない。周囲の過大な熱気を理解し、かつ冷静に指し続けた姿は棋士の理想に見える。

 興奮冷めやらずに将棋会館を出たのは日付の変わる寸前だ。あの黒いデイパック姿を目撃したのは、はるか昔のようだった。(専門委員)

続きを表示

この記事のフォト

2019年11月25日のニュース