吉田羊 プラハ、ウィーンへ 欧州に嫁いだ日本人を追う

[ 2019年1月17日 00:08 ]

日本人女性・クーデンホーフ光子の肖像画の前に立つ吉田羊
Photo By 提供写真

 読売テレビ・日本テレビ系の特番「吉田羊、プラハ・ウィーンへ ヨーロッパに嫁いだ なでしこ物語」(2月3日、後3・00、全国ネット)で女優の吉田羊(年齢非公表)が、プラハ(チェコ)、ウィーン(オーストリア)を訪れる。

 約120年前、激動のヨーロッパに嫁ぎ、「日本人の誇り」を胸に女手一つで7人の子供を育て上げ、「汎ヨーロッパの母」と呼ばれるようになったクーデンホーフ光子の人生の足跡を吉田が追う。

 東京・牛込(現在の新宿区)に生まれた青山ミツは17歳の時に、当時オーストリア・ハンガリー帝国の代理公使だったハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵に見初められ、19歳で結婚。西洋人貴族と日本人の初めての国際結婚といわれたシンデレラストーリーだった。

 だが、日本での幸せな暮らしもつかの間、夫に母国から帰還命令が下され、光子は子供をつれて夫の祖国オーストリア・ハンガリー帝国に渡った。ところが、夫が病に倒れ、急逝。光子は遠い異国で孤立無縁の状態で7人の子どもを女手一つで育てることになった。相続問題や戦争など、様々な逆境に翻弄されながら「黒い瞳の伯爵夫人」と呼ばれ激動のヨーロッパを生き抜いた。

 子供たちに最先端の教育を受けさせようとウィーンに移り住み、息子を位の高い人々へ売り込むため社交界に積極的に顔を出すなど、母として、時には厳しい父として、家長として、子どもたちを育てた。そんな母に影響を受けた次男・リヒャルトが提唱した「汎ヨーロッパ主義」が、現在のEUが出来る礎となったと言われる。

 光子が愛したオーストリア・チェコはどんな街だったのか。当時の生活はどうだったのか。どんな人々に囲まれて過ごしたのか。今から120年前、明治時代に若くして見ず知らずのヨーロッパに渡った大和撫子の心情に重ねて、旅人・吉田羊が、光子が生きた証を探し、街を訪ね歩き、彼女の足跡や証言を様々な場所で集めながら、その波乱万丈の人生を辿る。

続きを表示

2019年1月16日のニュース