文太さんらに感謝状 夫人がメッセージ「あの世で皆様に感謝状を」

[ 2015年2月11日 05:30 ]

菅原文太さん

第69回毎日映画コンクール表彰式

 昨年11月28日に死去した俳優の菅原文太さん(享年81)と、同12月13日に永眠した映画評論家の品田雄吉さん(享年84)に感謝状が贈られた。高倉健さんは事務所から「故人の生前の遺志に従い辞退したい」と申し入れがあった。会場には品田さんの妻、千世子さんが駆けつけ、涙ながらにお礼のあいさつ。文太さんの文子夫人からは長文のメッセージが寄せられ、進行役が代読。大きな拍手が起こった。

 【菅原文太さん夫人 メッセージ全文】

 俳優として何とかご飯が食べられるようになったのは、安藤昇さんの紹介で東映に入った1960年代後半からで、すでに34歳になっていました。その遅咲きが逆に幸いしたかも知れません。鬱屈(うっくつ)した思いがエネルギーとなり、東映という自由奔放な現場で生き生きと、時に我儘(わがまま)な迄(まで)に本領を発揮できたのですから。代表作となった作品に巡り合った頃の日本は、今よりはるかに社会全体に寛容さと自由、何より自信が満ち、娯楽映画のなかで、アウトローや社会からはみ出した人間たちを存分に演じ、暴れまわり、観客も演じる側も大いに溜飲(りゅういん)を下げ、楽しんでいた時代です。高度経済成長期のあの当時、人々にはこの国への信頼と希望がありました。あの時代を働き盛りで迎えた世代は、自分の才能を実力以上に(笑)花開かせ、キャリアを築くことができたとも言えます。あの頃と比較してあらゆるところで国や社会の締め付けが厳しくなり、自由が名ばかりになっているように見える今、生きるためのエネルギーが人々から失われ、国民力が痩せ細ってゆくようで気がかりです。

 晩年に近くなってから、色紙には「無心」と「仁義」の二つの言葉を彼は書くようになりました。「無心」の意味を本人に尋ねたことはありませんが、彼の日ごろの言動から、無欲、一切を捨てることをためらわない無欲の心なのだろうと思っています。物欲や名誉欲には恬淡(てんたん)としていたと思います。褒め過ぎじゃないかと言われるかもしれませんが、東北の米作地帯のかなりの地主の家に育ったせいもあるかもしれません。

 歴史の中で、東北の地は中央からは長く辺土でありました。職業の中でも俳優は、アウトサイダーでしょう。また、東映も、宝塚の東宝、歌舞伎の松竹に比べたら、どちらかと言えばアウトサイダーが強みの社風ではないでしょうか。その東映の俳優の中で、菅原は傍流だったと思います。少なくとも本人はそう自覚していました。彼が、中央から遠い沖縄や福島の苦境に心を寄せたのも、自らを偽ることなく生きた者が辿(たど)り着く必然の場所であり、無農薬有機農業もまたその歩みの果てに待っていたと思います。

 国の中央からも、繁栄の残響からも遠く、アベノミクスの一瞬の花火の見物席からも遠くに生きる人々から、毎日映画コンクールを通してこの感謝状を頂いたものと、喜んでいるだろうと思います。いえ、映画館の窓口で一枚一枚切符を買って下さったその人々こそ彼の俳優人生を支えてくれたのですから、あの世で得意の毛筆を揮(ふる)い、皆様に感謝状を書いているかもしれません。 菅原文子

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2015年2月11日のニュース