【内田雅也の追球】熱狂期待の関西シリーズ

[ 2023年10月23日 08:00 ]

日本シリーズ開幕セレモニーで花束を受ける南海・鶴岡一人(左)、阪神・藤本定義両監督。スタンドは空席が目立った(1964年10月1日、甲子園球場)
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 日本シリーズが阪神―オリックスの対戦と決まり、前回関西対決だった1964(昭和39)年の阪神―南海への関心が高まっている。両球団の事務所があった梅田―難波から「御堂筋シリーズ」と呼ばれた。今回は本拠地球場(および球団事務所)を結ぶ「なんば線シリーズ」と呼ばれる。

 ただ、当欄で何度か書いてきたが、59年前は記録的な不入りだった。東京五輪と重なったことが大きな要因だった。

 3勝3敗で迎えた最終第7戦は10月10日で、五輪開会式当日だった。当時の阪神遊撃手・吉田義男は試合前、ロッカーで「聖火の炎があがるのをテレビで見ていた」と話している。甲子園球場の有料入場者数は1万5172人とシリーズ史上最低を記録している。

 第1戦(10月1日・甲子園)も1万9904人だった。この年は東京五輪開幕までに全日程を終えようとしたが、台風や秋の長雨にやられ、阪神の優勝決定はシリーズ開幕前日の9月30日。大洋(現DeNA)を土壇場で逆転していた。直前の決定で前売り券がさばけなかったと伝わる。

 当時の心境を探ろうと阪神監督・藤本定義、南海監督・鶴岡一人の著書を読んだ。藤本は『覇者の謀略』(ベースボール・マガジン社)で<最大の目標>は<巨人を倒してセ・リーグで優勝する>。だから<日本シリーズまで神経がゆき渡らない>と書いた。鶴岡も『栄光と血涙のプロ野球史』(恒文社)で<打倒巨人が一番の宿願>で<親類と試合をしているようで、何が何でも打倒タイガースというファイトは湧き立たなかった>。世間の注目が東京に向き、闘志も薄かったようだ。

 そのシリーズは3勝2敗と阪神が先に日本一に王手をかけた。だが、第6戦の10月8日は雨で順延。回復したジョー・スタンカに9、10日と連続完封を喫して敗れた。

 阪神が敗れた一因に当時の不入りがあったのではないか。甲子園での第6戦は2万5471人、第7戦は先に書いた通り1万5172人。ファンの声援も寂しかった。

 阪神監督・岡田彰布はシリーズ進出を決めた20日、お立ち台で「シーズンよりももっとすごい歓声で、本当にありがとうございました」と応援への感謝を口にした。

 岡田は観衆や歓声が試合を動かすことを知っている。選手を後押しする熱狂を期待していた。 =敬称略= (編集委員)

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