【あの甲子園球児は今(14)帝京・芝草宇宙】87年夏、ノーノー達成「不思議な宇宙人」は帝京長岡監督に

[ 2022年8月18日 07:30 ]

帝京長岡で指揮を執る芝草宇宙監督
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 甲子園という舞台が力を引き出してくれたのか、それとも、俺はとことん甲子園に愛されていたのだろうか――。その答えは今もわからない。1987年夏。第69回大会を彩った芝草宇宙は、首をひねりながら当時の快投に思いをはせた。

 「甲子園は本当に不思議な場所というか、どういうわけか、私は甲子園でしかいいピッチングをしていないのです。予選の東東京大会なんて、特にひどかったですからね」

 甲子園切符をかけた東東京大会の登板は腰痛と背筋痛を抱えていたため、わずか10イニングだけだった。まったくチームに貢献できなかったが、痛みが癒えないまま乗り込んだ聖地で別人に生まれ変わった。1回戦で明石を6―1で退けると、快記録が生まれたのは2回戦の東北戦。芝草は大会史上20人目(21度目)のノーヒット・ノーランを達成し、球史にその名を刻んだ。ただ、当事者はこの記録をこう表現した。「自分の中では史上最低のノーヒット・ノーランと呼んでいます」。奪った三振は3つ、四死球8つがその理由だ。

 腰痛と背筋痛により、コンディションは当時「8割くらい」の状態だったという。万全ではないからこそ、コントロールや配球にこだわり、細心の気を配った。「全力で投げることができない中、どんなストレートを投げ、いかに打者のタイミングを外し、バットの芯を外すか。そんな事を考え抜いた結果がノーヒット・ノーランにつながったのだと思います」。四死球8が示すように再三のピンチを招いたが、自分のコンディションと向き合い、投球スタイルを変える。それを大舞台で実践できるクレバーな少年だった。

 芝草の名前が広く知れ渡ったのは、87年春の選抜大会だろう。大会前はプロ球団からの注目は皆無に等しく、むしろ、「宇宙」という名前だけが先行していた。アポロ11号が月面着陸に初成功した1969年生まれが名前の由来。2回戦で優勝候補の一角だった京都西(現京都外大西)から10三振を奪い、公式戦初完封勝利を挙げた。準々決勝は、のちに優勝するPL学園と延長11回の死闘を演じた。選抜前年の東京都大会と明治神宮大会を打力で制した帝京だったが、優勝を決めたマウンドはいずれも同級生の平山に譲っていた。夏に限らず、芝草は春も“甲子園でしか活躍しない男”だった。

 87年夏の快進撃は続く。3回戦で横浜商を1―0で完封。9回には遊撃内野安打で許した打者を隠し球でアウトにした。コンディションが万全ではないからこそ「次から次へとアイデアが浮かんできた」。帝京初の夏8強入りを決めると、準々決勝の関西戦も連続完封。2回戦・東北戦のノーヒット・ノーランを含めて3試合連続完封の離れ業を演じた。準決勝は春の選抜大会でも敗れたPL学園に再び土をつけられたが、聖地を盛り上げた快投は今なお色あせない。芝草は自身の名前に引っかけ「甲子園での当時の私は、不思議な宇宙人だったんでしょうかね」と笑った。

 芝草は18年2月下旬、母校の帝京で指導を開始した。同年4月から帝京長岡で外部コーチを務め、同年秋には同校を26年ぶりとなる北信越大会出場へ導いた。そして20年4月から帝京長岡の監督に就任。今夏の新潟県大会で初の決勝進出を果たした。延長11回、1―2で日本文理に敗れたが、就任3年目で甲子園へあと一歩のところまで迫った。「甲子園は最高の場所です。甲子園を経験すれば、必ず将来何かに生きてくる。うちの部員に早く甲子園を経験させてあげたい」。日焼けした精かんな顔で次なる夢を追っている。(吉仲 博幸)
 
 ◇芝草 宇宙(しばくさ・ひろし)1969年(昭44)8月18日生まれ、埼玉県所沢市出身の53歳。帝京では86年春、87年春夏連続で甲子園に出場。87年夏の2回戦・東北戦で無安打無得点試合を達成した。87年ドラフト6位で日本ハムに入団。91年には初登板初先発初完封勝利。06年にソフトバンク、07年には台湾の興農ブルズでプレーした。日本球界通算430試合46勝56敗17セーブ。引退後は日本ハムで投手コーチ、スカウトなどを歴任。20年4月から帝京長岡監督。

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