こだわり食パンでイチロー氏もとりこ! 一球入魂の精神で第2の人生を“力投”中の左腕

[ 2021年1月16日 09:00 ]

猛虎の血―タテジマ戦士のその後―(4)多岐篤司さん

<猛虎の血>オーブンからパンを取り出す多岐篤司さん(撮影・井垣 忠夫)
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 ユニホームを脱いでからも、支えとなったのは野球だった。86年ドラフト4位で阪神入りした多岐篤司(52)は1軍で0勝0敗のまま引退した。だが、野球はかけがえのない財産を与えてくれた。夫人の実家の家業を継いだ鮮魚仲卸の時代には阪神関係者が販路拡大に協力。一念発起して挑戦した食パンの世界を教えてくれたのは高校時代の野球仲間だった。高級生食パン「乃が美」の3店舗のオーナーとして奮闘する左腕の人生に迫った。

 球界のスーパースターが買い求めた食パンがある。焼いた職人はかつて阪神のユニホームを着た左腕だった。全国204店舗を展開する高級生食パンの専門店「乃が美」。米国シアトルでも冷凍で取り寄せていたイチローが「焼きたてが食べたい」と19年2月に立ち寄ったのが三宮店。応対したのがオーナーでパン職人の多岐篤司だ。

 93年のオープン戦で一度だけ対戦したことがあった。「スライダーで打ち取ったと思ったけど、打球は右翼の頭上を越えた三塁打。イチローさんも『でしょうね』と笑顔で応じてくれました」。86年ドラフト4位で入団。3位が代打の神様と呼ばれた八木裕だった。期待された左腕。94年7月、甲子園の巨人戦では2回1安打無失点。駒田徳広、長嶋一茂を抑えたが、左ヒジ痛に悩まされ、95年オフに引退。球団からは打撃投手を打診されたが、ヒジの不安もあり断った。

 ユニホームを脱いで、飛び込んだのは鮮魚の世界だった。くみ子夫人の実家が営む尼崎市場の仲卸「浜光水産」で一から修業した。魚の種類も知らず、包丁を握ったこともなかったが、真夜中の午前0時半に起床し、義父や同業者、お得意先に認められるように取り組んだ。販路拡大へ合宿所「虎風荘」や甲子園球場にも日参し、納入業者に選ばれた。後継者として社長に就任したが「流通の仕組みが変わって、直販が主流になり仲卸としては先がどうしても見えなくなった」。売り上げは減っていく。窮地で相談したのが、かつての野球部の仲間だった。

 神戸弘陵で多岐は4番投手。3番右翼が「乃が美」を13年に創業した阪上雄司だった。ダイエー社員を経て、独立した阪上は鮮魚の世界での多岐の努力を知っていた。「一緒にやらないか」と声をかけた。友に甘えるわけにはいかない。やるからには真剣に取り組まないとブランドに傷がつく。義父や家族、社員を説得し、自身も20年以上いた世界からの挑戦を決めた。パン職人としての修業に取り組みながら、4000万円の開店資金集めに奔走した。

 17年に三宮店を開業。さらに元町店、昨年11月には三田店と3店舗のオーナーとなった。社長であり1日800本のパンを焼く職人だ。「味では絶対に妥協しない。納得いかないと破棄します。収入は阪神時代の4倍くらいになったけど、借金もたくさん抱えてますから毎日が勝負です」。一球入魂の気持ちが今も多岐を支えている。 =敬称略= (鈴木 光)

 ◆多岐 篤司(たぎ・あつし)1968年(昭43)5月25日生まれ、兵庫県出身の52歳。神戸弘陵―阪神(86年ドラフト4位)。88年に米国野球留学に派遣されるなど期待されたが、左ヒジ故障で95年に現役引退。1軍では登板4試合、0勝0敗。背番号54。1メートル83、79キロ(現役時代)。左投げ左打ち。

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