【内田雅也が行く 猛虎の地】銀行マンから凄腕スカウトへ 戦後の混乱期、佐川直行を動かした野球愛

[ 2020年12月5日 11:00 ]

(5)富士銀行数寄屋橋支店

入団発表で握手を交わす(左から)佐川直行スカウト、戸沢一隆球団社長、田淵幸一、父・綾男さん(1968年12月17日、大阪・梅田の阪神電鉄本社)=阪神球団発行『阪神タイガース 昭和のあゆみ』より=

 男の運命なんて、一寸先はどうなるかわからない。銀行の窓口係だった男が数日後には、プロ野球の中枢に席が用意されていた――と、近藤唯之風に書いてみた。

 後に「辣腕(らつわん)スカウト」と評判を取る佐川直行である。

 終戦から3カ月、1945(昭和20)年11月23日、プロ野球復活を告げる東西対抗戦が神宮球場で行われた。入場料は6円。うち4円もの税金を取られた。ほとんど宣伝できず、入場者は5878人。主催の日本野球連盟(今の日本野球機構=NPB)は得た現金を後日、富士銀行数寄屋橋支店に預けにいった。

 ところが、窓口係の若い行員が話しかけてくる。「野球はいいですねえ、ぼくも立教でキャッチャーやっていました。今日の試合はどんな具合だったんですか」

 連盟会長・鈴木龍二の『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社)にある。

 その行員が数日後、連盟事務所に来た。男は「どうしても野球の仕事がしたい」と訴える。鈴木は<銀行員から野球屋に転職したいとは妙なやつだ、変わった青年だと思ったが、熱心さに打たれ、用うべきところがあるかもしれないと連盟で使うことにした>と採用した。佐川である。当時31歳だった。

 1914(大正3)年生まれ。札幌商(現北海学園札幌高)時代の31年、捕手で夏の甲子園大会に出場、8強に進出している。立教大ではタイガース草創期の強打者・景浦将と同期だった。

 連盟入りした佐川はさらに転身する。自分を売り込んだのだろう。スカウトとして大映入りし、中日に移った。

 阪神入りは56年12月。「藤村排斥運動」を扇動したとしてスカウト・青木一三が解雇となり後任にヘッドハントされた。この時、佐川は中日入りでまとめていた並木輝男(日大三高)、鎌田実(洲本高)を阪神入りさせている。後年、鎌田から聞いた。「中日のはずが、わけの分からんうちに阪神になっていた」

 65年11月のドラフトでは無名の石床幹雄(土庄高)を1位指名。二塁手兼務の背番号「4」で会議後「内野もできる」との談話が当時の本紙にある。鈴木啓示(育英高=現本紙評論家)を見送り「スカウト生命をかける」とたんかを切った。

 江夏豊や田淵幸一ら入団に難色を示した選手を「たぬき」と呼ばれた絶妙の駆け引きで口説き落とした。口達者は銀行員時代から変わらない。

 それにしても男の人生は分からない。もし、勤め先が他の支店だったら……他の窓口だったら……佐川の人生どころか、阪神のチーム構成も変わっていたのである。=敬称略=(編集委員)

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