元巨人・柴田勲氏 原監督は川上監督の“イズム”引き継ぎ采配に「柔軟性」も

[ 2020年9月9日 21:35 ]

セ・リーグ   巨人5―4中日 ( 2020年9月9日    ナゴヤD )

<中・巨>通算1066勝を達成した原監督はサインボールを手に笑顔を見せる(撮影・森沢裕)
Photo By スポニチ

 巨人・原辰徳監督(61)が、監督として川上哲治氏(故人、享年93)に並ぶ球団最多の1066勝に到達した。川上監督はチームをV9に導いた名将で、今年で生誕100年を迎えた。どんな指揮官で、どんな采配を振ったのか。当時を知る元巨人・柴田勲氏(76)らの証言からその実像に迫った。

  × × ×

 決して表情を変えることなく、貧乏揺すりをしながらじっと戦況を見つめる。柴田氏は、ベンチでのそんな川上監督の姿を覚えている。「喜怒哀楽は出さなかったね。監督は絶対。“俺に付いてくれば間違いない”というタイプだった」。巨人の9連覇は65~73年。高度経済成長期、まさに「巨人、大鵬、卵焼き」の時代だった。

 柴田氏は62年に巨人入団。川上監督の就任2年目だった。「厳しかった…というより、巨人は強くないといけないというのが根底にあった」。日本球界初のスイッチヒッターに転向したのも指揮官のアイデア。しかし盗塁王6度、セ・リーグ記録の通算579盗塁をマークした柴田氏だが、自由に走れる「グリーンライト」は一度もなかったという。全てがベンチからの指示。「川上野球といえば“チームのために働け”。個人成績よりも、チーム成績が何より最優先された」。チームの勝利至上主義は、現在の原監督にも脈々と受け継がれている。

 川上監督は選手と直接コミュニケーションをとることも少なかった。厳格な一線を引く。理由があった。采配や用兵では私情は一切捨てて、温情もかけない。だから例えば選手から仲人を依頼されても「私情を挟むようになってしまうから」と、全てを断っていた。そんな中で「最初で最後の仲人」を務めたのが柴田氏の結婚式だという。「そう考えると僕はかわいがってもらっていた。オフにも電話をもらって、よく車でゴルフの送り迎えをした」と懐かしそうに振り返った。

 昭和の頑固親父のような、勝負の鬼。そんな川上監督の「あんなにうれしそうな笑顔は見たことがなかった」という出来事が、柴田氏には一度だけあった。1969年7月3日の阪神戦(甲子園)。苦手にしていた相手先発・江夏豊に対し、不動の中軸である王貞治、長嶋茂雄の「ON」がいながら、打線へのショック療法として1番が定位置の柴田氏が4番で起用されたのだ。同年江夏に11打数無安打だった柴田氏だが、初回に2ランを放つ。そして4―1で勝利。試合後、最後にバスに乗り込むと最前列に座っていた川上監督から手を差し出され「よく打った!」と笑顔でねぎらわれたという。

 川上監督は13年に93歳で死去。今年、生誕100年を迎えた。昭和が終わり、平成が過ぎ、時代は令和となった。偉大な記録に並ぼうとしている原監督について、柴田氏は「監督になって最初の頃は川上さんに近かったような気がする。今は(コーチや選手に)任せるところは任せて、(采配に)柔軟性が出てきた」と評した。川上監督のような厳しさを併せ持ちながら、時代の流れにも柔軟に対応する。そうやって白星を積み重ねてきた。

続きを表示

この記事のフォト

2020年9月9日のニュース