【内田雅也の猛虎監督列伝(28)~第28代 野村克也】狂騒の果ての泥沼 夜明け前の暗闇

[ 2020年5月18日 07:30 ]

98年10月28日、就任発表を終え笑顔で握手する(左から)久万オーナー、野村監督、高田球団社長
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 球団社長・高田順弘が「野村克也様」と「様付け」で監督就任要請を公表したのは、1998年10月14日だった。高田は吉田義男の後任として内々に安藤統男と接触していたが、本社の野村招へい案の前で霧消した。

 野村がヤクルトを退団するかもしれないとオーナー・久万俊二郎の耳に届いたのは7月、情報元は新聞記者だった。久万はこの情報元と本社秘書部長・竹田邦夫を密使として、野村や夫人の沙知代に接触。球団専務・野崎勝義はヤクルト球団や野村の再就職先NHKに承諾を求め、招へい作業を進めた。野崎の著書『ダメ虎を変えた!』(朝日新聞出版)にある。

 表面化した後、久万自身も出馬して東京で正式に就任要請を行い、10月28日、リッツカールトン大阪で晴れて就任発表となった。OB頼みから外部大物へ、美しい表現を使えば、久万の英断で新時代が到来したわけだ。久万が崇拝していた西本幸雄(本紙評論家)も11月に野村と対談し「長年の低迷は本社・球団の姿勢が問題だった。今回は大きなエポックになる」と語っていた。

 野村は「阪神に行けばボロボロになる」「関西は怖い」と話していた。11月、秋季キャンプ地の安芸であいさつに出向いた。名刺を差し出すと「鶴岡の子分か?」ときた。「親分」と呼ばれた鶴岡一人は69年から長年、本紙評論家を務めていた。77年の南海監督解任時「鶴岡元老にぶっ飛ばされた」と怨念は根深かった。2000年3月、鶴岡の通夜、告別式にも姿を見せなかった。

 野村の懸念をよそに、ヤクルトを4度優勝に導いた名将の就任に関西は沸いた。対談した大阪府知事・横山ノックは「大阪に活気を」と期待し、大和銀行総合研究所は「優勝すれば経済効果1000億円」と試算した。まさに野村フィーバーの狂騒のなかにあった。

 野村は秋季キャンプで新庄剛志に「投手をやってみないか」と持ちかけ、99年の春季キャンプ、オープン戦にかけ投打二刀流構想を進めた。本音は「他人の痛みを分からせるため」で打者としての成長が狙いだった。

 キャンプでは自ら作成した教則本『ノムラの考え』を配り、連夜ミーティングを行った。技術論以前に人生論を説き、意識改革を進めた。

 1年目の開幕で宿敵・巨人に2勝1敗と勝ち越した。5月19日の広島戦(米子)では遠山奬志に一塁を守らせ、伊藤敦規をワンポイント起用、再び遠山を登板させてピンチを脱出。他に葛西稔もまじえた「スペシャル継投」は十八番だった。

 6月9日には92年以来2209日ぶりに首位に立った。12日の巨人戦(甲子園)では延長12回裏、新庄が敬遠球を打ちに出てサヨナラ打を放って首位を守り、お立ち台で「明日も勝つ!」と叫んだ。思えば、この夜が野村が阪神監督として最高潮の時だった。

 大豊泰昭は野村の辛らつな「ボヤキ」に心が離れた。マイク・ブロワーズは解雇となった。ダレル・メイは「勝てば自分の手柄、負ければ選手の責任」と書いたビラを報道陣に配った。チームは沈んでいき、8月は7連敗、9月は球団ワーストに並ぶ12連敗を喫し、最下位で1年目を終えた。

 2年目の2000年は4月の9連勝後に下降し5月には最下位。興奮も熱気も冷めていき、甲子園最終戦(10月1日)は観衆わずか1万8000人だった。コーチで加わった前西武コーチ・伊原春樹は野村と対立し、1年で辞めていった。新庄がFA宣言し、大リーグ・メッツへと去った。

 契約最終年、3年目の01年。開幕前の3月、野村の妻・沙知代の脱税疑惑で東京国税庁が野村家に立ち入り検査、阪神球団にも調査が入った。3月8日に球団社長に昇格した野崎は常に辞表を持ち歩き、覚悟を持って臨んだと著書にある。

 それでもチームは上向かず、最下位に落ちた後の6月28日、電鉄本社株主総会があった。野村の去就についての株主質問に本社社長(オーナー代行)の手塚昌利は「今後どう進めていくか検討している」と続投を明言しなかった。同夜の甲子園は観衆1万3000人である。すでにファンは絶望を感じていた。

 7月2日、久万は神戸・御影の自宅前で本紙・和田裕司の質問に「野村でいきたいが、6位なら、さあ、どうですかな」と微妙な発言を行った。西本は野村が着るヴェルサーチの高級スーツをたとえに「菜っ葉服で泥にまみれる姿勢がほしい」と本紙に書いている。

 野村は野崎を通じ、久万、手塚との会談を要望し7月30日に行われた。野村は「エースと4番は育てられない」と補強の重要性を訴え、久万も理解を示した。契約延長の話となり野村は「1年で結構です」と答えた。夫人が逮捕となれば辞任との確認も行った。野崎は8月2日、野村続投を早々と発表した。

 進退問題は一応決着した形だった。シーズンは球団史上初の3年連続最下位。野村は4年目に向け、秋季キャンプにもドラフト会議にも出た。

 Xデーは12月5日だった。東京地検特捜部は沙知代を所得税法違反(脱税)などの容疑で逮捕。東京・玉川田園調布の自宅で家宅捜索に立ち会った野村は夜、甲子園の球団事務所で野崎に辞任を申し出た。野村の会見は日付の変わった6日午前0時28分に始まり「辞任します」と頭を下げた。

 就任時に予感した通り「ボロボロ」だった。野村が耕した土壌には確かに芽は出ていたが、花が咲き、実がなる気配などなかった。もう少しで光が差し込む夜明け前の暗闇のなかにいた。=敬称略=(編集委員)

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