【内田雅也の猛虎監督列伝(18)~第18代・吉田義男】マスコミに担がれ、マスコミに切られた

[ 2020年5月8日 08:00 ]

1975年6月1日、大洋とのダブルヘッダー2試合目、吉田監督は大洋に連勝し、好リリーフの安仁屋(左)を出迎える。背番号1は阪神歴代監督の中で最も若い番号だった。
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 1974(昭和49)年10月5日、西宮球場で阪急―ロッテのパ・リーグ・プレーオフ第1戦が行われた。吉田義男は中継の関西テレビで解説、ゲストは近鉄監督・西本幸雄だった。試合後、西宮のステーキハウス「モンド」で夕食となった。

 五百崎三郎『そして、猛虎は甦った』(東都書房)にある。西本は「吉田君、遊べるのは今のうちやで」と冗談を言った。「えへへへ。そんな心配ありませんわ。僕はこの仕事もっと続けよう思うてますから」

 <ところが一夜明ければ情勢はまったく変わっていた。(中略)本人も知らない間にタイガースの監督へのレールが敷かれていたのであった>。

 プレーオフはロッテ3連勝で9日、宮城球場で決着。後の予定がなくなり、吉田はスタッフと蔵王に観光に出向いた。そこに電話が入った。

 吉田は<阪神という球団は変わっている。私に監督就任を打診してきたのは、マスコミのある人物だった>と著書『阪神タイガース』(新潮新書)で明かしている。しかも球団ではなく<すぐ帰って小津正次郎さんの家へ来いという連絡だった>=『牛若丸の履歴書』(日経ビジネス人文庫)=。小津は当時本社専務。球団社長に就くのは78年で、まだ正式に球団業務に携わっていない。

 本社、マスコミの派閥争い、黒幕暗躍のなかでの就任だった。村山実との争いに敗れて5年。当時、吉田に身を退くよう伝えた球団社長・戸沢一隆と、23年間オーナーを務めた野田誠三(本社会長)が退任。代わって本社社長・野田忠二郎がオーナー、球団常務・長田睦夫が代表に就いた。新オーナーは野球に関心が薄く、本社副社長の田中隆造が実権を握った。奥井成一『わが40年の告白』(週刊ベースボール)に<田中副社長は吉田君を特別にひいきにしていた>とある。球団上層部が一新され、吉田就任の土壌ができていた。

 背番号は監督では珍しい1にした。解説者時代、毎年渡米し大リーグを視察した。ヤンキース監督で「けんか屋」と呼ばれたビリー・マーチンを<自己を貫く姿にあこがれ、願いを込めた>。

 吉田最初の仕事は江夏豊の処遇だった。チーム内に「一緒にやりたくない」と反江夏派が多く、球団もトレード要員にあげていた。ロッテ監督・金田正一、日本ハム球団社長・三原脩らから譲渡申し入れが相次いだ。

 吉田は江夏と話した。11月1日、江夏が12月に結婚式を挙げる大阪・中津の東洋ホテルで、6日に甲子園で会談し再出発を誓って残留となった。

 1年目75年。9月に8連勝で首位に立つなど広島、中日と優勝争いを演じたが、10月の巨人戦3連敗で夢はついえた。

 江夏は12勝12敗6セーブ。毎日新聞記者だった玉置通夫は『これがタイガース』(三省堂書店)で<不遜な態度が目立った。教育係を買って出たコーチ兼捕手の辻(佳紀)も「オレの手に負えん」とついにサジを投げてしまった>と書いた。

 年が明け、76年1月19日、江夏は球団事務所に呼ばれ、長田から南海(現ソフトバンク)へのトレードを通告された。吉田は報道陣に「何も知らなかった」と言った。後に著書で<球団は「監督は知らないことにしておけ」と言ったが、実際は南海・野村克也監督と細部を詰めることを任された。それが外へ漏れ、江夏は不信感を募らせた><本人には私から説明すれば良かったと今になって思う>。

 玉置は<江夏はぶ然たる表情>で「まるで犬の子を動かすようにされては、何をしてきたのか」と話すのを聞いた。トレードは江本孟紀との交換を軸に2対4で決着、キャンプ地入り3日前の1月28日に発表された。

 残ったスターは田淵幸一だった。前年、初の本塁打王となり、やる気がみなぎっていた。だが、キャンプ中に膝を痛め、腰痛を悪化させた。

 田淵自身が<自身のイメージダウンにつながっていく大きなミスを犯してしまう>と『タテジマ』(世界文化社)で記したのは長期ロード前、1ゲーム差で追う首位巨人との3連戦(甲子園)だった。7月31日、吉田孝司の一―本塁間の邪飛を<見失い、動けなかった>。一塁手ハル・ブリーデンは捕れず、直後に2ランを浴びた。8月1日は同点の9回表2死一、二塁で淡口憲治への内角球が<左足に当たった>。死球だと抗議している間に二塁走者の生還を許した。連日「怠慢プレー」と新聞に出た。

 吉田はマスコミに田淵の守備を「怠慢だ」と非難した辻佳紀に「外部に言う前に本人に注意するように」とたしなめた。<辻コーチは聞き入れず、この年限りで退団してしまった>。

 3年目の77年。開幕直後に若虎・掛布雅之が死球で離脱。佐野仙好がフェンス激突事故で倒れた。55勝63敗12分けの勝率4割6分6厘は当時球団史上最低で4位だった。

 マスコミのバッシングは激しく、更迭論が高まった。「タバコの箱に名前を書いている」「水虫の治療代を球団に請求した」など、直接采配とは関係のない人格攻撃が展開された。本社副社長の田中は「辞表を出しても慰留する」と言明。9月19日、長田が「来季も吉田監督でいく。本社首脳の意見も踏まえ、本人にも伝えた」と留任を公表した。その公表後7連敗を喫し、更迭論がぶり返した。

 吉田は書いている。<マスコミ辞令は現実のものとなり、私はあっさり辞めさせられた>。そして<マスコミの一部に担がれた監督就任の経緯を考えれば、反対派のマスコミにはもっと神経を使うべきだった>。10月17日、留任要請を振り切る形で辞任会見を開いた。吉田は「阪神タイガースは永遠に不滅です」と長嶋茂雄をまねたが、受けなかった。=敬称略=(編集委員)

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