【内田雅也の猛虎監督列伝<番外>幻の阪神監督】阪神監督になれなかった―ならなかった―男たち

[ 2020年5月7日 08:00 ]

15年オフ、2軍監督に就任し、金本監督(右)とガッチリ握手する掛布雅之
Photo By スポニチ

 阪神歴代監督を振り返る連載をしていると多くの候補がいたことをあらためて知る。阪神の監督になれなかった(ならなかった)人びとである。連載中盤の番外編として取り上げてみたい。

 今もファンの間で待望論が根強い掛布雅之だが、取材の限り、阪神が本格的に監督候補として論議した形跡はない。

 現役晩年の1987(昭和62)年開幕前、飲酒運転で逮捕され、当時オーナーの久万俊二郎(電鉄本社社長)は「大ばか野郎」「うちの4番は欠陥商品」と言い放った。望むスター像を京言葉の「はんなり」(上品で落ち着いた華やかさ)としていた久万のお眼鏡にかなわなかったようだ。

 久万逝去(2011年9月)後の13年10月、ゼネラルマネジャー(GM)・中村勝広の仲介で、GM付育成&打撃コーディネーター(DC)として、引退以来25年ぶりに阪神に復帰した。2軍監督、オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー(SEA)、現在は電鉄本社の阪神レジェンドテラー(HLT)として関係を保っている。

 本人は変わらず阪神への愛情を抱く。かつて「ロッテと楽天からは具体的な話はあった」=『巨人―阪神論』(角川書店)=と監督要請を受けながら「野球観の違い」で断っている。年月は過ぎ、9日で65歳になる。

 同じく「ミスター・タイガース」と呼ばれた田淵幸一は「深夜のトレード通告」(78年11月14~15日)の際、球団社長・小津正次郎から「将来阪神の監督として戻るため勉強してほしい」と告げている。実際の復帰は僚友、星野仙一が監督に就いた2001年12月のチーフ打撃コーチで、24年ぶりだった。

 優勝を果たした後の03年10月3日、広島遠征で星野とともに山本浩二宅へ夕食に向かうタクシーで星野から「わしは今年で辞めるよ」と聞かされた。著書『タテジマ』(世界文化社)にある。

 さらに「わしの次をやる気ないか?」と後継監督の意志を問われた。「その気があったら推薦する。最善の努力をする」

 田淵に「その気」はなかった。「監督と一蓮托生できた。オレもユニホームを脱ぐよ」日本シリーズ開幕前日の10月16日、星野、田淵そろっての退任が伝わった。後任には岡田彰布が就いた。

 一枝修平は1989年9月、監督・村山実の後任に水面下で内定していた。動きを察した村山が17日、球団に辞意を伝えた。同夜、一枝が「えっ!?」と絶句した顔を忘れない。「僕が手を下したわけではないが追い詰めたのは事実」と眠れぬ夜が続いた。

 20日朝、一枝は「監督になる気はない」と就任拒否の会見を開いた。背後で動く球団外の黒幕の存在を明かし「第三者の言いなりになるような球団ではやっていけない。何と愚かなことか」と失望と怒りをにじませた。

 96年秋も藤田平の後任として安藤統男とともに再び候補にあがった。紛糾の末、吉田義男3度目の監督復帰で落着した。

 自身の名が大見出しとなった本紙を一枝は「冥土の土産ができた」、今はなき夫人も「これでいいのよ」と笑っていた。

 その96年秋、球団は当初、スパーキー・アンダーソンを監督候補に水面下で交渉していた。大リーグ、ア・ナ両リーグでワールドシリーズを制した名将だ。球団社長・三好一彦、同常務・野崎勝義らは『スパーキー! 敗者からの教訓』の共著者、ダン・イーウォルドを仲介し、年俸130万ドル、ヘッドコーチに和田博実……と交渉を進めた。だが、夫人の反対で破談。球団役員会は紛糾し「三好社長に一任」で吉田復帰となった。

 吉田は前回2度目の監督復帰となった84年秋も混乱の後の就任だった。続投が発表されていた安藤が突然辞任したのは背後で西本幸雄への監督要請を知ったからだ。この時も黒幕が介在していた。水面下の話をやがて公表した球団社長・小津は日本シリーズ中、宝塚の西本邸を訪問した。西本は「すでに断った話に記者を大勢連れてやって来た。(小津が)しばらく、ここにいさせてほしいと言うので応接室にいただけだ」と話し、もはやセレモニーだった。

 すでに連載本編で書いた鶴岡一人への監督要請(68、69年)とそっくりの茶番劇だった。

 史上初の最下位となる78年も激動だった。球団は8月末から後藤次男の後任を探していた。当時資料部長の奥井成一は『わが40年の告白』(週刊ベースボール)で「再建委員会」の設置を明かしている。球団社長・長田睦夫、常務・岡崎義人、営業部長・大津淳、統括本部長・河崎雄介、チーフスカウト・小林治彦、そして奥井の5人が26日から9月8日まで、大阪・福島にあった佐藤旅館で8度の極秘会談を開いた。後任監督を田宮謙次郎とした報告書をオーナー代行(本社副社長)の田中隆造に提出した。

 後に球団社長に就く本社専務・小津正次郎が9月20日、田宮と会い、監督就任を要請。29日に受諾した。スポニチ本紙はそれぞれ翌日に「田宮」を1面で報じた。ところが後に小津から「白紙に戻してほしい」と連絡があった。奥井は<オーナー代行の変心しか考えられない。人権無視も甚だしい>と書いた。本紙スクープは幻と消えた。

 白紙となった新監督には同年、日本一監督となった広岡達朗が辞任するとの情報を耳にし、招へいに動いたが、留任で失敗。ドン・ブレイザー就任となった。広岡には81年にも小津が要請したが、5年契約の要求に応えられず再び失敗した。

 野村克也が解任となる2001年12月、球団はオリックス監督を退いた仰木彬に監督就任を打診していた。最終的には同じく中日監督を退いた星野仙一で決着した。

 2011年、真弓明信の後任候補に当初名前があがったのは梨田昌孝だった。近鉄時代、仰木はコーチで、梨田は選手で監督・西本幸雄の薫陶を受けていた。20年間オーナー職にあった久万が助言を受けていたのが西本で「西本さんの教え子なら間違いない」と語っていた。つい最近のことのように思い出すが、久万も西本も野村も仰木も星野も……皆すでに鬼籍に入った。=敬称略=(編集委員)

続きを表示

この記事のフォト

「大谷翔平」特集記事

「始球式」特集記事

2020年5月7日のニュース