田淵幸一氏 阪神での73年V逸があったから「今がある」…盟友・星野に敗れ巨人に逆転V許す

[ 2020年5月4日 07:00 ]

我が野球人生のクライマックス

73年10月20日、中日戦の8回2死、阪神・田淵は三邪飛に倒れベンチに引き揚げる
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 悔しさが野球人生の支えだった。スポニチの野球評論家陣が、忘れ得ぬ試合やワンシーンを自ら振り返る「我が野球人生のクライマックス」。第3回は田淵幸一氏(73)。阪神時代の1973年10月20日、優勝目前まで迫りながら中日に敗れた一戦は今も心に深く刻まれている。(構成・秋村 誠人)

 今も忘れ得ぬ試合がある。「天才アーチスト」と称された田淵にとって、それは劇的な勝利でも、豪快なアーチを放った試合でもない。痛恨の敗戦。あの日の試合後、すべて色あせて見えた光景が心に焼き付いている。

 「あの試合に勝って優勝していたら、私の人生は全く変わっていた。あの悔しさは忘れない。あれがあったから今があると思う」

 1973年10月20日だった。引き分けでも優勝という中日戦。このシーズン129試合目(当時は130試合制)だった。「もう絶対に優勝できると思っていた」。阪神ナインの誰もが同じ気持ちだった。ところが――。いざ試合になると、思うように体が動いてくれない。中日の先発は東京六大学時代からの盟友・星野仙一。後に星野が「阪神はみんなガチガチで、真ん中に投げても凡打ばかりやった」と振り返ったように、2―4の敗戦。「あのときの阪神で前回優勝(64年)の経験者は遠井(吾郎)さんくらい」。経験のなさ、優勝の重圧に押しつぶされてしまった。

 「後で星野から聞いたけど(二塁手の高木)守道さんが“こんな打てないチームを優勝させるな”って試合中に言ってきたと。それほど打てなかった」

 試合の途中、甲子園での最終戦に備えて大阪移動する巨人ナインを乗せた新幹線が中日球場の近くを通過。車窓から見えるスコアボードで阪神が負けているのを知り、車中で大盛り上がりしたのは有名な話だ。まさかの敗戦。名古屋市内の宿舎に帰ると、大広間に舟盛り用の舟だけが残されていた。「祝勝会はパー。舟盛りの中身もなかったよ」。ただ、むなしさだけがチームを覆い尽くしていた。

 翌日の巨人との最終戦は雨で流れ、22日の甲子園。ここでも勝てば優勝だったが、0―9の大敗を喫した。試合直後、巨人の逆転優勝に怒った阪神ファンがグラウンドになだれ込み、巨人・王貞治が下駄で頭を殴られる事件まで発生。不動の4番として、目前まで迫った優勝を逃したショックは大きかった。

 「それからの1週間は何もする気が起きなくて、(兵庫県西宮市の自宅)マンションから一歩も外に出られなかった」。見果てぬ優勝への思い。それをさらに強くする出来事が2年後にあった。75年10月。球団創設初優勝を果たした広島の主砲・山本浩二から電話が入った。「ブチ、優勝っていいぞ」。法大時代からの盟友の言葉が心に刺さった。「タイトルなんてちっぽけなものだ。優勝したら仲間も、家族も、裏方さんも、ファンも、みんなが喜べる。優勝しなければダメなんだ」

 その思いは、79年に移籍した西武で実を結ぶ。広岡達朗監督の下で82、83年に日本一になった。特に82年、リーグ優勝に王手をかけて臨んだ日本ハムとのプレーオフ第4戦。9回のベンチで「神様、仏様、優勝させてください」とつぶやいた。9年前の悔しさが言わせた心の叫びだ。そして、あと1アウト。最前列で言った。「おまえら、オレより先に行くなよ!」。自身初の優勝決定の瞬間、田淵は真っ先に飛び出した。

 「あの中日戦に勝って優勝してたら移籍もなく、阪神で引退してたかもしれない。そしたら西武での日本一もなかっただろうね」

 82年の日本一。日本シリーズで下したのはその中日だった。盟友の星野は、この年限りで引退している。(敬称略)

 《好相性の二朗が先発なら…》あの中日戦から47年を経て、今も疑問に思うことがあるという。先発が中日に抜群に相性が良かった上田二朗(73年シーズンは対中日8勝1敗)でなく、中日戦に分が悪い江夏豊だったことだ。エースは江夏だったが「みんな二朗が先発、江夏で締めて優勝だと思っていた」という。実際、試合前のメンバー交換の際に岡本伊三美ヘッドコーチがベンチへ引き返し、金田正泰監督に「これでいいんですか?」と確認したほどで「なぜ二朗じゃなかったのか、(92年に他界した)金田さんには聞けないままだった」と振り返った。

 《82年前期優勝呼んだ逆転弾》16年の現役生活で474本塁打。その中でも心に残る一本が西武時代の82年、前期優勝へ大きく前進する逆転弾だった。6月20日の南海とのダブルヘッダー第1戦。打撃不振でスタメンを外れた田淵は3―4の9回、南海の守護神・金城基泰から代打逆転2ランを放った。「苦手のアンダースローから、ずっと打てなかったカーブを打った。なぜかあの打席は反応できたんだよ」と振り返る。西武は●△で自力Vが消滅するダブルヘッダーに連勝し、阪急を逆転して首位に。同25日に前期優勝を飾った。

 ◆田淵 幸一(たぶち・こういち)1946年(昭21)9月24日生まれ、東京都出身の73歳。法政一(現法政)から捕手として活躍し、法大では当時東京六大学記録の22本塁打を記録。山本浩二、富田勝と「法政三羽ガラス」と呼ばれ、68年ドラフト1位で阪神に入団。69年に新人王、75年には43本で初の本塁打王に輝き、巨人・王貞治の14年連続を阻止。79年に西武に移籍し通算474本塁打。84年の引退後はダイエー監督、阪神、楽天でコーチを歴任。08年北京五輪では星野仙一監督の下でヘッド兼打撃コーチも務めた。今年1月に野球殿堂入り。 

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